前号で81年までの勧告の様子を見てきました。60年以降、ここまでは紆余曲折はあったにせよ(政府が完全に勧告を無視したり、実施月を遅らせたり)公務員共闘のがんばりでなんとか実施させることができたのですが、82年からはちょっと様相が変わります。
1982年、組合は12%の賃金アップを要求し、民間が7%台の春闘相場を獲得、結果として人事院が4.58%を勧告したにもかかわらず、この年のベースアップは見送られてしまいました。
この頃の不況と就職難はとにかく深刻。自分が当事者だったのでよくわかりますが、文学部などという就職のことなど何も考えていなかった学部の学生には特に厳しい現実が待っていて、田舎で就職するには公務員になるしかほとんど手はありませんでした。同じような境遇の連中の多くは公務員試験に殺到し、採用が若干名(4名以下)に過ぎなかった市町村立小中学校事務職員にすら600名もの受験者があったぐらい。でも結果的に200倍の激戦から選ばれたのが、この地区では私と、今はO沢小学校で教員をやっているS(情宣にオレはいつ出てくるんだ、とリクエストされた)の大馬鹿二人であることを考えると、試験とは名ばかりの“抽選”だったんだな、と今は思えるのですが。
以降、84年までの3年間ベースアップが“値切られ”たのには以下の背景があります。この当時から公共事業の大盤振る舞いなどによって財政危機が叫ばれ、マスコミの論調も『甘い人事院勧告の民間準拠』(朝日)だの『公務員給与の抑制は当然』(毎日)といった具合に勧告への風当たりは強くなる一方。そして鈴木善幸首相(当時)が【財政非常事態宣言】を出し……
……何か気づきませんか?
そうです。今とそっくりなのです。竹中平蔵や福田官房長官が勧告前に(これはずるい!)『公務員給与の削減やむなし』といった発言をくり返して地ならしをし、世論の公務員バッシングの波をうまく利用する。そして今回は勧告そのものがマイナスとなってしまいました。
では、不況を脱し、国民全てが躁状態になったかのように語られるバブルの時代はどうだったでしょう。
85年のプラザ合意に始まり、総量規制に終わったと言われる、この実態と株価の乖離がはなはだしかった時代もチェックしてみてください(やっぱり表なし。ごめん)。
おかしいと思いませんか?世間の狂騒のわりには、ほとんど上がっていないのです。民間が空前の利益を上げ、札束が乱れ飛んでいた印象があるのに、なぜ賃金はおさえこまれていたのでしょう。
ここに現在がまだ“バブル後”と呼ばれてしまう要因があります。マネーゲームによって蓄積された圧倒的な内部留保を、各企業はいったい何に使ったか。従業員にちゃんと還元していれば現在の苦境はなかったはずなのに、無謀な設備投資やさらなるマネーゲームにつっこんでしまったのはご存知のとおりです。しかしそんななかでも民間にはボーナスの伸びはあったのに、官の方はバブル終盤に0.55月分が伸びたにすぎません。こう言ってしまってはミもフタもありませんが、バブル期に公務員にはほとんどいいことはなかったのです。そしてバブル崩壊後、民間にも、公務員にも冬の時代がやってきました……
画像は「戦場のピアニスト」The Pianist(’02)
実在のピアニスト、シュピルマンの自伝の映画化。ナチスのポーランド侵攻により、ワルシャワで生き残るために辛酸をなめたユダヤ人の物語。しかしこれは、むしろ母親をアウシュビッツで虐殺され、自らも逃亡生活を送った監督ポランスキーの体験記と考えた方がいいかもしれない(この監督は妻をチャールズ・マンソンに惨殺されたり、少女との性行為のために国外に逃亡していたり、実生活の方がよほど波瀾万丈)。そのせいか、逆に淡々とした描写が続く。多くの人は、ヒロイックになろうともせず、こうやって“食べる”“飲む”“着る”ことに汲々としていたのだろう。ほとんど最後の最後まで、主演のエイドリアン・ブロディにピアノの猛特訓の成果を披露させないあたり、にくい演出。
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