池田晶子さん著「暮らしの哲学」毎日新聞社
p14に 「たまたま」のこの人生 という章があります。
「格差」や「勝ち組」「負け組」に関して
「格差」というのは、ひょっとしたら、外にあるものではなくて、内にあるもの、その人の心の中にあるものではないか。比較する心そのものなのではないか。
そして、「たまたま」自分がここに生まれて、あそこに生まれなかった ということについて
カースト社会の末端で飢えているのが、私なら、六本木ヒルズでセレブな暮らしをしているのも私だ。誰も彼もが私であり得るのだけれども、なぜだか私はここでこの人生をやっている。だとしたら、今のこの私の人生なんてものも、全く相対的なものじゃないか。
私は、たまたま住職後継者と結婚したから、お寺に住んで、僧侶になる縁も恵まれ、何だかんだエラソウなことばかり言っている
夫の職業によっては、その筋の「姐さん」になって、若いモンに檄を飛ばしていたかもしれない。
いや、内戦の続く劣悪環境に生まれて、早々に死んでいたかもしれない。
今、こうして「たまたま」「私という人間」を「ここで」生きていることほど不思議なことはない と思う。
曾野綾子さんの本(何であったか忘れましたが)にも、こういう意味のことが書かれていました。
私は、この世の人の身に起こりうることが、自分の身におこっても何の不思議もないと思って生きている。
この覚悟(諦観・・・「あきらめ」というより真実を悟る)で生きていれば、人と比較しない人生に恵まれ、些細なことでジタバタするのが、少~しは、軽減されるように思います。
それが難しいのですがね。
p14に 「たまたま」のこの人生 という章があります。
「格差」や「勝ち組」「負け組」に関して
「格差」というのは、ひょっとしたら、外にあるものではなくて、内にあるもの、その人の心の中にあるものではないか。比較する心そのものなのではないか。
そして、「たまたま」自分がここに生まれて、あそこに生まれなかった ということについて
カースト社会の末端で飢えているのが、私なら、六本木ヒルズでセレブな暮らしをしているのも私だ。誰も彼もが私であり得るのだけれども、なぜだか私はここでこの人生をやっている。だとしたら、今のこの私の人生なんてものも、全く相対的なものじゃないか。
私は、たまたま住職後継者と結婚したから、お寺に住んで、僧侶になる縁も恵まれ、何だかんだエラソウなことばかり言っている
夫の職業によっては、その筋の「姐さん」になって、若いモンに檄を飛ばしていたかもしれない。
いや、内戦の続く劣悪環境に生まれて、早々に死んでいたかもしれない。
今、こうして「たまたま」「私という人間」を「ここで」生きていることほど不思議なことはない と思う。
曾野綾子さんの本(何であったか忘れましたが)にも、こういう意味のことが書かれていました。
私は、この世の人の身に起こりうることが、自分の身におこっても何の不思議もないと思って生きている。
この覚悟(諦観・・・「あきらめ」というより真実を悟る)で生きていれば、人と比較しない人生に恵まれ、些細なことでジタバタするのが、少~しは、軽減されるように思います。
それが難しいのですがね。