(2017/03/16 後記; 間違いらしい。 アンバサダーはヒンドスタンモーターズの車らしい。 すみません。)
タタ自動車をふくむタタ財閥の創始者であるジャムセッジ・タタは、1839年にインド西部のグジャラート(Gjarat)にゾロアスター教の一族に生まれる。(ちなみに、3月3日生まれ。つまり、桜田門外の変の日の生まれなり。) その一族は現在インドでParsiと呼ばれるペルシア(今のイラン)系の血統である。誕生の地であるグジャラートは西暦1100年ころに船でペルシアから逃れてたどりついた地。それ以来、渡来ゾロアスター教徒たちはこの地に住み続けていた。その経緯はリンク先にある。
ウィキペディア(Wikipedia):「インドのゾロアスター教」
ジャムセッジ・タタは、14歳の時、その故郷グジャラートから大英帝国のインド進出の象徴、イギリス東インド会社の大拠点があったボンベイ、今の呼称がムンバイ、へ来てcollegeに入った。そして、1858年に卒業、父の貿易会社に入り、ビジネスも始めた。その年といえば、インド大反乱(1857-1859)の真っ只中ということになる。そのムガール皇帝を担いでの王政復古クーデター(the Restoration)は結果的に失敗した。
: : つまりは、蛤御門の変と対毛唐さん戦争・大東亜戦争をいっきにやってしまい、1945年の大日本帝国の運命にさきがけて、インドはアングロサクソン(えげれす)の属領・属民となったのである。 : :
拙記事; 蛤御門の変+大東亜戦争=皇帝追放・属領化
その1859年の失敗がインドの大英帝国の直接支配をもたらすことになる。1877年のインド帝国の成立。この間日本は、薩英戦争が1863年、the Restoration (明治維新), 1868年。インドと日本の『大英帝国という経験』!
ジャムセッジ・タタがインド近代産業の祖とされるようになったのは、彼が3つの計画を策案したから。1)鉄鋼業の創設、2)世界最高クラスの教育施設の創設、と3)水力発電所の建設。結果的には彼の存命中には実現しなかったが、彼の後継者たちが実現した。
タタはインドの財閥ではあるが、日本近代の財閥とはその社会での存在の意味が違う。すなわち、タタが民間部門の雄となったのは、対英インド独立と関係がある。ジャムセッジ・タタはnationalistであったとある。 Wikipedia: Jamsedji Tata。 nationalistの日本語訳は難しい。愛国主義者、民族主義者、国粋主義者…..。彼は、対英独立の活動家と交流し、彼らに感化された。それで、彼の採った路線は、政治的自由を担保するものはまずは経済的充足であると。ジャムセッジ・タタにとって政府はイギリスのインド統括政府。癒着する相手にあらず。
この点が、まず政府ができて、その政府の軍隊を輸送することが初仕事であり、富国強兵の政府路線を翼賛することができた岩崎三菱ら、そしてあまつさえ、ちんぴらにいちゃん上がりの政府「高官」(爆笑!)から官営事業を格安払い下げをしてもらった日本財閥との違いである。ちなみに、非たたら系の、近代日本の製鉄業の始まりは官営八幡製鉄所であるが、これは日清戦争で清からふんだくった賠償金で作ったことはいうまでもない。 (日本は織豊時代、江戸時代と鋼の輸出国であった。良質の鋼をオランダ商人経由で輸出していたのである。鉄と鋼の違いを知らない人は、調べた方がいいよ。鳥取県安来市@どじょうすくいの街の和鋼博物館)
1867-1877年に、インドが、日本がイギリスと闘って、それぞれ体制が変わっていった頃(大英帝国という経験!)、に志士になるはややトウがたった青年が、政治にのめりこまないで、近代産業を興す人といえば、いたなと思いつき、もしかして、同世代?と思いググると、果たしてひとつ違いだった。 ウィキペディア 渋沢栄一 テロリストくずれ、である。
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【インド経済】インド、7-9月期の携帯電話販売台数で世界一
Google; インド 携帯電話人口
●今日弥生3日は、桜田門外の変の日。
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Google; 3月3日 桜田門外の変
この時、井伊直弼は首を胴体から切り離されて、浪士/烈士に持ち去られた。大名が死んだにせよ、ただ死んだのと首を取られたのは大違い。首を取られると、お家断絶となる。なので、井伊家家臣は必死で直弼の首を取り返して、胴体に糸で縫合し、家に帰って畳の上で死にましたと幕府に「虚偽」報告をして、お家断絶を免れた。
1860年、万延元年、弥生のことである。
ちなみに、水戸浪士たちは、直弼の首級でサッカー、万延元年のフットボール、をしたわけではない。
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レッド・フォート(ラール・キラー)の歴史展示館でのレリーフ。
この1857年の事件の様子らしい。
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去年は1867年のインド大反乱から150周年だったが、ラクナウでの「テロ犠牲者」たる英国人の集会をインド政府が拒否したらしい。
http://www.topix.com/world/pakistan/2007/09/uk-india-mutiny-ceremony-blocked
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Gajar Ka Halwa にんじんを使ったデザート。
インド5回目にして初めて食べる。おろしたにんじんに、煮詰めた牛乳を砂糖と混ぜたもの。
デザートは季節のものなので、今はにんじんの時期なのだろう。
初夏はマンゴーが食べられる。
帰りの飛行機で隣のインド人のIndian機内食のデザートもこれだった。
Google; Gajar Ka Halwaの画像
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今はインド北部ではにんじん収穫の時期らしい。
■ バカヤロウーの日
今日2月28日は、バカヤローの日だと朝のラジオで言っていた。
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■後記;ONGOVT DUTYとは、on government dutyのことらしい。
つまりは、「御用」だということか?
●ボンクラが艦長。
--航海長を防衛省に一度戻して事情聴取したが、誰の指示を受けたのか
--航海長を防衛省に一度戻して事情聴取したが、誰の指示を受けたのか
「忙しい中でその時点でどこから(指示を受けたか)というのははっきり理解していない。覚えていないというか、いろいろなところから来ているのでどこからか特定することはできない」
すげーな。自分の行動の根拠がわからない人間が「軍人」である、我らが、ぬっぽん。 さよなら、ぬっぽん。 亡国者無用の自滅のクニ、ぬっぽん。 残念!、無用のおいら。
本当の意味での「自」衛隊、すなはち、自己保身隊のみなさま!
せめて、これからは、キムさんやコさんの指示だけは受けないでね。お願い。