愚記事で「今日はつくば記念日;松竹梅のつくば戦後開拓集落について」がある。定常的にアクセスがある記事である。敗戦直後の緊急開拓についての話だ。現在のつくば市ばかりでなく、日本各地で生じた話。
1945年(昭和20年)11月9日に閣議決定した「緊急開拓事業実施要領」においては、戦後の混乱期の深刻な食糧不足を背景に、大量の復員軍人・海外引揚者・離職者を帰農させ、その食糧自給を図るため、農地開拓を緊急に実施することとした。(wiki)
現在のつくば市では、松見、竹園、梅園はそういう緊急開拓事業関連地区であったことを上記愚記事で書いた。
さらに、松見、竹園、梅園以外の緊急開拓事業関連地区らしき場所がわかった。洞峰沼「湖畔」。財団法人 つくば市高齢者福祉事業団が発行した「高齢者福祉事業だより No13 お元気ですか」(平成13年)に出ていた。2001年の資料。荷物を整理したら出てきた。
二の宮 山田栄吉
洞峰地区に入植 数々の恩忘れず
昭和二十一年、四月、一緒に満州から引き上げてきた私を含む四人は小野崎に入植しました。住居ができるまでは長屋を借り、四人で共同生活をしながら、田圃作りに毎日二キロの道を通い、一方で住まい作りをしました。材料は内原日輪兵舎の払い下げと土浦の瀬古沢魚店よりいただいた古材でした。
1972年の洞峰池付近の地図。高層気象台が、現在の気象研。
1972年の地図を見ると、洞峰池に加え、松野木池もある。のち、学園都市建設でここは洞峰公園となり、松野木池は埋め立てられた。地図で点線として現在の西大通りの予定地が見える。池のまわりは北側が広葉樹、南側が針葉樹域となっている。水田は洞峰池の北東部に認められる。上記の戦後開拓者であった山田栄吉さんは、この洞峰池の北東部の水田で農業に従事したと思われる。上記「洞峰地区に入植 数々の恩忘れず」に書いてある;
茨城の農法は今までの知識では全然通用せず、失敗の連続でした。水稲の種子は満州でも作った陸羽一三二号、農林一号より早く、出穂の時期スズメにやられ駄目、大豆・小豆も駄目。漬物用の青首大根だけは捕れました。
↓現在の洞峰公園
愚記事より 最近の洞峰池
愚記事より
■ 内原日輪兵舎、あるいは、満蒙開拓青少年義勇兵
この山田さんの回顧で知らなかったことをいろいろ知る。ネットでググれるおかげだ。山田さんは「つくば」(現在のつくば市小野崎)で移入者として住まいの建材として内原日輪兵舎からの払下げを使ったとある。内原日輪兵舎、もちろん、知らない。ググった。わかった。水戸にあった満蒙開拓団に参加する青少年(満蒙開拓青少年義勇軍(wikipedia))の訓練場だったらしい。➡満蒙開拓青少年義勇軍のための内原訓練所
以前は満州入植のための訓練施設であった内原日輪兵舎は、敗戦後は満州から引き上げた青少年の一部の内地での帰り先であったらしい。そして、内原日輪兵舎に滞在し、内地での入植先を探したに違ない。
上記山田さんの回想には直接書いていないが、おそらく山田さんは満州から水戸の内原日輪兵舎に引き揚げ、そこで、「つくば」の開拓地を紹介され、入植したと推定される。
これらの推定の根拠は、類似の経緯で土浦に入植した人の証言だ(リンク)。
■ 満州帰りの山田栄吉の「つくば」でのその後
(昭和)二十六年には妻を迎え、県の補助を得て馬を買い馬耕が出来るようになり、体も少し楽になりました。西瓜、タバコ、酪農とできることは何でもやり、どうやら生活が成り立つようになった頃、降って湧いたのが学園都市の話でした。区画整理地区となり、当集落は公園整備のため洞峰沼周辺は全面買収との事でした。
県・公団と交渉に渡り歩きましたが全然埒があきません。それでは国会議員にお願いしようと、議員会館に陳情に行き、運良く市川房江さんにお会いでき事情を聞いていただいたのが懐かしい思い出です。