■序;
http://twitter.com/#!/yum_labo/status/109925131907899392 現在リンク切れ
■ぼけ;
日本化学会というのがあって(おいらは関係ない)、その雑誌のネット上で公開されている記事より;
学生諸君,大学院は将来への投資だ! by 菅 裕明 東京大学大学院理学系研究科化学専攻 教授
5 月と7 月に,私は米国東海岸と西海岸にそれぞれ研究所を構えるバイオテクノロジー企業2 社を訪れる機会をもった。両企業とも,すでに上市済みあるいは上市間近の薬剤開発に成功し,創立当初のベンチャー企業名を保持したまま大手グローバル製薬企業に買収された企業だ。したがって,実質的にはその製薬企業の傘下である専門技術分野に特化した研究所的な立場となっている。この訪問の際に,合成化学者,生化学者,細胞生物学者からなる若い所属研究者たちと私はラウンドテーブル・ディスカッションの機会をもった。そのときの彼らが発する質問やR&D(Research &Development,研究開発)議論は,非常に高度でアカデミック的な議論もあれば,極めて実践的な議論もあり,彼らの高い知識とパイオニア精神,そして建設的なアグレッシブさが感じられるものだった。国内化学・製薬企業への訪問でも,私は似たような機会をもつことは多々あるが,明らかに「空気」が違う。自らの好奇心に裏打ちされた自由な議論という刺激的な「空気」が異なるのだ。
アメリカ人と日本人の人種的な違いだ,と簡単には片付けられない。事実,私が訪れたベンチャー企業には様々な人種の研究者がいる。決定的に違うのは,米国の研究者は全員,博士学位(Ph.D.)をもっていることだ。そして,自らの学位に誇りをもち,お互いが同じ立場で切磋琢磨し,かつ同じベクトルをもって共同研究をしていることだろう。それが,前述の「空気」へと反映している。本誌の読者である日本化学会に所属する学生諸君に知っていただきたいのは,欧米企業のいわゆる研究者の大半は博士学位をもつ事実である。一方,日本の企業では,修士学位と博士学位をもつ研究者が混在している。また,博士学位をもつ研究者の中には,修士学位取得後に企業での研究で論文博士学位を受けた研究者も多い。
という冒頭で始まる。出だしはおもいしろいのではあるが、続く論旨は支離滅裂である。この冒頭の印象を証明したのであれば、①日本企業において博士だけの研究現場で米国とおなじ高い知識とパイオニア精神,そして建設的なアグレッシブさが感じられる、あるいは②日本で博士号を取った日本人研究者が米国など海外において、非常に高度でアカデミックで,極めて実践的で,高い知識とパイオニア精神,そして建設的なアグレッシブさを発揮しているのを見たということなどなどを示さないと、ただの経験による、ためにする、印象論である。
そして、ためにする、というのはこの「学生諸君,大学院は将来への投資だ!」の主旨に他ならない。
さらには、実は印象論よりももっとタチが悪い。菅 裕明センセは、日本の大学院教育を経て産業界で働いている博士が、必ずしも「高い知識とパイオニア精神,そして建設的なアグレッシブさ」をもって研究できていないことを、わかっているのだ。
肥大化した大学院を維持するために。日本の大学の化学業界全体の動きなのかは知らないが、化学の博士大学院教育はアカデミズムのための人材育成だけではなく、産業界でも役立つ人材を供給する方針らしい。その理由をおいらが邪推するに、アカデミズムのための人材育成だけでは大学院の定員を減らさなければいけない。しかし、せっかく大学院教授さまに「三流」大学を含めみんながなったのに、それは許せない。だから、アカデミズムのための人材育成だけではなく、産業界でも役立つ人材を供給する方針にしたのだろう。
一方、産業界からは、日本の博士つかえねぇ~という声は根強い;
○中江委員 (住友化学株式会社 取締役 常務執行役員)
・資料3-2の5)に「博士課程にコースわけを設けるか?」と書いてありますが、これは私から見ると、ちょっと行き過ぎではないか。むしろ今までの修士あるいは博士課程で基礎的な、まさに2)に書いてあるようなことを鍛練するのではなくて、言葉は悪いですけれども、ペーパーを出すための即戦力として最先端の研究だけやらせていることは、産業界に入ってきていただいても役には立たないし、学者の世界で本当に役に立つのかどうか知りませんけれども、そこが問題だというのが皆さんから出ていた意見ではなかったか。ですから、コース分けというのは、ちょっと行き過ぎではないか。 (愚記事)
でも、菅 裕明センセは、建設的だ。
しかし,冒頭の米国ベンチャー企業で垣間みたように,パイオニア精神をもち,アグレッシブな研究開発を企業で推進する力は,博士課程で十分なトレーニングを受けた研究者から生まれ得る可能性が高いのも事実だ。今,日本の大学院に問われていることは,「優秀な学生」が将来のキャリアパスに希望をもって博士課程に進学し,適切なトレーニングを受ける環境にできるか,である。そのためには,博士課程でのトレーニング(教育カリキュラムと研究)が学生にとって魅力あるものでなければならない。
へぇ~。でも、そんなパイオニア精神をもち,アグレッシブな研究開発を企業で推進する力をトレーニングする大学院教育が日本のどこにある?
death valleyで死にそうなおいらは、受けてみたいや、そんなトレーニング。
なにより、誰がそんなトレーニングをするのかな?税金でのんべんだらりんとプラモデル作って給料もらっているのと一緒なんだもんという優雅な雲上人さまがdeath valleyの処世を御指導か。すごいな、無駄な公共事業としての肥大化した大学院教育。
事実、菅 裕明センセは言っている、「そのためには,博士課程でのトレーニング(教育カリキュラムと研究)が学生にとって魅力あるものでなければならない」 と理想形を語っているにすぎないのである。そんな大学院は日本にはないのだ。ないのに、学生に進学しろと勧める。それで、学生本人がリスクを取れ!だって。
■でもさ、菅 裕明センセがドクターをとったMITは教授でコンサルタントなんてあたりまえ。中には従業員が数万人のメーカーの技術取り締まり役だったりする。日本では、そんな教授さまはいない。いい悪い以前に制度や、もっといえば文明が違う。日本で大学が産業界を"指導"するなんて実績や伝統はないに違いない。
菅 裕明センセは志が高い。ぬっぽんもアメリカのようにやればうまくいくはずだ。なによりそうすべきである。アメリカ流をそのまま持ち込もうとする菅 裕明センセ。代表作が、『切磋琢磨するアメリカの科学者たち―米国アカデミアと競争的資金の申請・審査の全貌』(Amazon)。
愚ブログが再三指摘している、 「一方、おいらは以前から、書いている。その成因を無視した文明・文明を安易にパクッて、ぬっぽん列島で安直に使うと悲劇るって。」に他ならない。
もし、菅 裕明センセの高い志を日本の学生に実践してもらいたいなら、「日本の学生よ!米国で博士号を取って、高い知識とパイオニア精神,そして建設的なアグレッシブさを身につけよう!僕みたいに。 日本じゃ無理だから」と言えばいいのだ。そうすれば、すっきりする。そして、無駄な公共事業としての肥大化した日本の大学院教育はリストラだ。
・さて、リスク計算をした上でリスクを取る!と豪語なさる菅 裕明 東京大学大学院理学系研究科化学専攻 教授さま。共同研究や共著のリスクもさぞかし計算なさっていたのでしょう。どんなリスク計算をしたのか、教えてほしい。 ちなみに、御自身のweb siteの著作欄から消えてい⇒http://www.cbl.rcast.u-tokyo.ac.jp/member/Suga.html 現在リンク切れ (著書・「切磋琢磨するアメリカの科学者たち」菅裕明 共立出版 2004・「科学者って何だ」梶雅範(編・著)菅裕明(著)他 丸善出版 2007) の2冊のみ記載。多比良和誠センセとの著作は削除。
↓ 多比良和誠ととの共著を「抹殺」している菅 裕明 東京大学大学院理学系研究科化学専攻 教授さま
化学と生物学の接点がつくるNewバイオテクノロジー (Amazon)
▼なお、菅 裕明センセはネット悪玉論者である。ドクターコースに学生が進学しないのは、ネット情報のせいだ!と愚痴っている。
しかし,現在では,博士修了後にアカデミアに就ける可能性が低いことに対する不安(実際は昔もその可能性は低かったのであるが,それがインターネット等で議論されるため学生の不安を煽る結果となっている),またアカデミア研究者への「あこがれ」が希薄になり「優秀な学生」が博士課程に進学することが減った。大学の授業料は高騰し,学生生活を支援する親の負担も増えてしまったため,修士大学院生は博士課程進学を躊躇する。さらに拍車をかけるのが,博士学位者の就職難,ポスドク問題といったネットで氾濫するネガティブな情報だ。これでは,優秀な学生が博士課程に進学しなくなるのもいたしかたないことだろう。
そうだ!そうだ! 若き前途ある学生の諸君!こんな崩れのブログなんかみてちゃだめだぞ! 志を高くがんばるのだ!
・この記事の英語題が、To all students: Graduate school is an investment in the future!だ。
To all students: Graduate school is an investment for the future! の方がいいだろう。 あるいは、an investment for your future!の方がもっとよくないか?
■つっこみ; 一方、政府内部から次のような大学院重点化の総括がある。
福田光宏(履歴) 第6回 教育における需要と供給のミスマッチ(その1)
名取研二氏は「工学系の博士課程教育を考える」で「企業に長く在職して時には新人の採用に関わった身として、企業側から見た思い……の一端を述べてみよう。……博士を採用すると、将来の幹部候補となる優秀な人材として社内の期待が集まる。いきおい、同一年齢層(というより、学部レベルに変換された採用年度で分類されるが)で比較される。すでに社内で数年の実務経験のある学部・修士卒生はそろそろ一人前に成長してきているとき、3年遅れで入社した博士卒は、多くの場合大学で携わってきた仕事と異質の業務内容を前にして、当面は成果の見えない苦闘を強いられることとなる。博士の学位を給与面で特に優遇していない場合が多いが、このような場合でも、同じような賃金を払っていて片や業務に着実な成果が出て、片やほとんど成果がないという対比はどうしても目立つことになる。……やがて多くの優秀な博士卒生たちも仕事を覚えて一人前に育っていく。しかし、大学で自分の研究分野に打ち込み博士卒の年齢層に達した一部の人たちは、フレキシビリティが少なくなっていて新しい異質の分野への転換・能力発揮がうまく図れないケースがある。……うまくいかなければ、本人にとっても、また会社にとっても大きな不幸である。……博士卒の採用はリスクがあるとの印象が後に残る。……社内で年次を重ねていき、博士卒採用組が優れれば「さすがやっぱり博士」と見られるが、それで普通と判断される。生え抜き組が優れれば「何だ、博士もたいしたことはない。学部・修士卒で充分ではないか」と、博士採用が敬遠されかねない。博士卒採用が特別な目で見られる状況は、少数の例外的な採用であることと関係している」と指摘している。