昨日の記事は、宮古島から沖縄本島への飛行機からの画像。 明治維新直後、日本と清が国交を樹立して、国境を確定しなければいけないとき、つまり、琉球王朝の処分を日清でどうするか決めなければいけない時、宮古島と石垣島は清朝に属するという案があった。
もしそうであったなら、日清の国境は、昨日に記事で越えた、沖縄本島と宮古島の間となり、宮古島の住民は清朝に属するはずであった。しかし、実際は史実のように、明治薩長政府、大久保利通は、遭難して台湾で殺された宮古島の住人の事件を理由に、台湾に出兵、琉球本島から台湾まで続く諸島の列弧において、その国境は石垣島と台湾の間に、とりあえず、決まった。 台湾が日本領になったのは日清戦争のあと。
さて、日露戦争のとき、ウラジオストックを目指して北上したバルティック艦隊は、宮古島と沖縄本島の間の海域を抜けて、太平洋から東シナ海に入った。下記リンク「久松五勇士 解説」の地図参照。そのバルティック艦隊を発見して、通報せんと石垣島まで、下記画像の大きさの船を10時間以上漕いだというお話。
画像では船の大きさの実感がわからないが、下記リンク先の写真参照;
久松五勇士 解説
なぜ、日帝庶民はこんなに けなげ なのだろうか、といつも思うことを、罰当たりなおいらは、今日も考えたのでした。
海は本島にエメラルド色で、この画像では再現できていません。今になって、デジカメに海浜モードがあったって気づいた。