本ブログの「主カタキ役」たる「薩長ちんぴらにいちゃん」たちの赫々たる業績は2皇帝の奪取と3国王の生け捕り。
屯田兵、北へ南へ。あるいは、賊軍・官軍。
その5系統の皇帝と旧国王を「傀儡」として大日本帝国の版図を広げ経営。
「薩長ちんぴらにいちゃん」の生け捕りした3王朝とは、ぬっぽん徳川王朝(江戸)・琉球尚王朝(首里)・朝鮮李王朝(京城)。3王様は、自らの旧城をおん出され、大日本帝国において東京で皇族や華族となる。つまり、「薩長ちんぴらにいちゃん」は日本国王、琉球国王、そして朝鮮国王を無化したことになる。
昭和10年4月6日東京駅. 二皇帝@薩長の奪取したおもちゃ、の出会い
【日本国王・沖縄・白石】
日本国王; 日本国王とは、もちろん、徳川将軍のことである。この称号は6代将軍家宣の時に新井白石が改称した。それまでは、徳川将軍のことを支那や朝鮮に対し「日本大君」と称していたのを止めた。
沖縄; 「沖縄」という語を作ったのもこれまた白石。白石の時代、つまり17-18世紀には、清朝・支那は琉球王朝に宗主権を持ち、朝貢を要求していた。実際は薩摩の島津家が事実上支配していたので、2重支配ということになる。朝貢する琉球王朝は、清朝支那から見て、「琉球」。これに対し、白石は「沖縄」という視点と概念、つまり江戸からみた「琉球」を、作り上げたことになる。 事実、明治維新後の1875年の「琉球」処分による琉球王朝廃絶ののち設置されたのは「沖縄」県。(琉球併合!)
さらには、戦後、米占領軍がこの島に作らせたのが「琉球政府」である。そして、1972年に日本に「復帰」し、「沖縄」県となった。(琉球再併合!)
【北京の琉球官僚】
琉球王朝が清朝に朝貢していたということは何も儀礼的なものばかりでなく、その支那文明の受容を前提としていたようだ。一昨年、北京に行ったとき、国士監に行った。国士監とは清朝皇帝が直接、この堂にある玉座に座り、清朝官僚に講義をするのである。と、おいらは聞いた。どうやら、ヤマ感!霊感!コクシカン!、と言って国運を占うのではなく、孔子さまの原典を注釈することで、政治を導いたとのこと。
その清朝皇帝から講義を受ける清朝官僚はあの科挙を通った当時の人類で一番のスーパーガッコ秀才ちゃん@つんぽない、つまり宦官さまたち[1]である。一方、琉球官僚は別枠で国士監に来て「研修」していた。聴講生みたいものか。それにしても虎の群れに入り込んだにゃんこちゃんって感じだったろう。ところで、琉球官僚がつんぽをどうしていたのかはすらない。 誰かおすえて。[2]
後期;[1][2] どうやらおいらは誤解していたらしい。科挙に受かった官僚と宦官は違うらしいのだ。中国史知識薄弱です。
その日、この国士監の敷地には観光客はほとんどいなかった。そこに日本語で説明するガイドと観光客2-3人組に遭遇。勝手についていって、ガイドの説明を聞いた。その時中国人ガイドが琉球からの官僚もここで研修していたと聞いた。その時、ガイドが琉球と言ったのか、沖縄と言ったのかおぼえていない。とにかく、そこで初めておいらは琉球の朝貢というのは使節の派遣・歓迎だけでなく、もっとつっこんだものだと知った。その時自覚的にチェックしたのだが、その中国人ガイドの説明には、琉球/沖縄は本来支那に属するというニュアンスは全く無かった。たぶん留学とか言って説明していた。ニュアンスでいうと今、北京に中国語研修しにきている日本人とでもいった感じ。印象はむしろ日本人観光客に対し「卑屈」ではないかとおいらは思ったほどである。
北京、国士監
中国⑬ 孔子廟
【守礼;幻の東アジア共同体】
白石の時代、清朝は康熙帝という清朝時代最も充実し版図を拡大した時代。ただ幸いなことに康熙帝はふるさとの満州など陸地の奥深くの方が好きだったようで、ごりごり海へ出てきて琉球支配を貫徹させようとはしなかったのかもしれない。さらには、いけいけ最盛期の康熙帝は朝鮮王に康熙帝の息子を養子にするように強要。これに対し朝鮮王朝は、「そんなことしたら日本が黙っちゃいない」と日本をダシにして拒絶に成功。表向きは儒教・中華思想を基盤とする守礼外交で、日本と支那のパワーオブバランスは維持された。日本外交は白石の戦略である、支那・漢字教養に基づく小中華主義。つまりは中華の作法をもって中華を追い越そうというやり口である。だから、漢字運用、つまり上記の外交文書のターミノロジーにこだわるのである。
ターミノロジーにとどまらず、そもそも琉球/沖縄の文明的・地理的重要性に着目して情報収集と文明誌・地誌・言語の集成に尽力した(『南島志』、『琉球考』)。
【白石と琉球、そして君美】
とりとめのない話でおちがないので、適当につける。沖縄の語を、既存のオキナワという音に漢字をあてて、作った新井白石。白石はもちろん号。緯(いみな)は君美(きんみ)である。さて、犬彦センセによると、由良君美(きみよし)は死ぬ8年前にその父哲次の著書『古琉球語で解明する邪馬台国と大和』を完成させるため、その参考文献であるチェンバレンの『琉球語辞典』の翻訳をやったとのこと。これだ↓
「琉球語文典および辞典にかんする試論」(B・H・チェンバレン著、由良君美訳)
哲次さんも息子への名前の付け甲斐があったというものだ。
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小説を読むときに最初に気をつけることは、作者が登場人物にどのような名前をつけているかを考えることだ。