- - 夜の天安門広場、 2006年冬 - -
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YouTube :Tiananmen Square Massacre 天安門事件
北京中枢の天安門広場や中南海は大きな街路に整然とある。だから、広場や大路には人がたくさん集まりうるという「リスク」がある。
本来、これは「リスク」ではなく、帝国の機会であった。すなわち、独裁者・皇帝とそれを注視する大群衆という構図に必要な舞台であるから。
もっとも、清朝の本当の皇帝は、下々の群集を動員する必要もなかったし、事実しなかった。 しかし、中共の皇帝は、天安門広場に、しばしば、群集を動員した。
今でも語り草なのが、支那全土から紅衛兵を集めては、教唆扇動した毛沢東主席。
1966年8月18日、紅衛兵の腕章をつけた軍服姿の毛は、100万の紅衛兵に姿を見せ、彼らに「謁見できた」という意識を与えた。
● 天安門事件
- - 独裁者は、群集に謁見させる広場を造ったが、同時にそれは、独裁者に反逆する広場を作ったことでもあった。支那共産党は自分たちの墓堀人を作り出しているのだ。
でも、まだまだ、支那共産党は元気はつらつである - -
墓堀の女神
現在、天安門事件と呼称される事件には2つある。すなわち、1976年の四五天安門事件と1989年の六四天安門事件。両方とも非極左指導者あるいは「資走派」指導者の死への哀悼を契機としている。前者が周恩来であり、後者が胡耀邦。
いずれにせよ、天安門とその大路に群集があつまり、政権の脅威となる。
1989年の六四天安門事件では、 人民弾圧軍 「人民解放軍!」(爆嗤)を投入し、派手に群集を蹴散らした。
この身もふたも無い独裁政権の権力行使は、倭の国の極めてmodestyなおまわりさんを驚愕させる。
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我らがおまわりさんこと、佐々センセは、1960年代末の大学紛争、極左街頭闘争花やかなりし時の治安責任者であった。彼が、自慢するところによれば、「全員生け捕り」にしたそうである。一方、機動隊の諸君には多大の犠牲者。
そうなのだ、戦車にふみつぶされた支那学生と、機動隊員にさんざん迷惑かけたが、終始「ぼっちゃん」扱いだった、倭の学生サン!
↑今も倭のどこかで、元気です。
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さて、そんな、警視庁佐々センセも、賊軍の御子孫であらせられたとは...。
明日のココロだ~!