-ウェスト ミンスター寺院、ロンドン [wiki]-
例えば、a Princess of Wales は、おそらく他の多くの a Princess of Wales 同様、ここで、挙式し、ここで、葬られた。
今週知ったこと。
ロンドンに初めて行った日本人は伊藤博文らではなかったということ (関連愚記事;■ ネオ・ゴシック と びびり)。
にっぽん音吉さん、だって。 知らなかったょ。⇒wiki
にっぽん音吉さんが、ロンドンに来たのは、1830年代らしいので、英国国会議事堂はまだできていなかっただろう。でも、上記、ウェスミンスター寺院を見たかもしれない。 その時、にっぽん音吉さんは、どんな気持ちだったのだろうか?
■ 彼の数奇な人生はwikipediaで読んでもらうこととして、帰国に失敗した後は、上海で暮らす(この島でも暮らし、結局、埋葬される)。
そして、その上海から、日本に開国を迫る英国の "servant" となって、かつ、支那人に変じ、来日。
出撃基地は、上海。 にっぽん音吉さんは上海から日本に英国船に乗ってきた。
こちらから見て、~♪~海を越えたら、上海~♪~ということは、
向こう様から見ても 倭国 東夷 日本だって、~♪~海の向こうは、 倭国 東夷 日本~♪~ということだ。
当たり前の事実だが、福岡・博多からは東京より、上海の方が距離として 近いのである ほぼ同じ距離なのである。
しかしながら、この当たり前の事実を意識していない(=知らない)日本人は多い(とおいらは思う)。
なぜなら、地理学的、現実の距離と、日本人おのおのがその脳内で持っている "距離感" は違うからだ。
▼ 話は、にっぽん音吉さんからペリー来航に移る。ただし、共通点は上海だ。
■ "距離感" は世間でいう「近くて遠い国」という感覚のことである。
「近くて遠い国」というばかりでなく、「近いけど遠ざけたい国」というのがある。
「近いけど遠ざけたい国」は脳内で発生する。 この発生した感覚をわかりやすく文章で表現した好例が下記である;
それまで、日本の周囲では、南シナ海は世界史の海ではあったが、しかし、太平洋はいまだに海であって海ではなかったのだ。だから、日本の開国が、太平洋を越えてやってきたペリーによって強いられたことは実に象徴的な意味を持っているように思われる。
『海洋国家日本の構想』、高坂正尭 高坂 正堯、1965年 (Amazon)
この事実誤認は、"実に象徴的な意味を持っているように思われる。"
まず、事実誤認の詳細は、ペリーはインド洋経由でアジアに来航し、上海で逗留した後、小笠原、琉球を経て、浦賀沖に現れたのだ。
おそらく、高坂正尭 高坂 正堯 大センセはペリー艦隊が太平洋をつっきり横断し、浦賀沖に現れたと思い込んでいたのであろう。
なぜ、そう誤解したのか?考えてみる。
その誤解、つまり、ペリー艦隊が太平洋をつっきって横断し、浦賀沖に現れた、というイメージは、昭和17(1942)年、太平洋をつっきって横断して日本列島に迫った航空母艦ホーネットから出撃したドゥーリットル隊が東京を初空襲したことに象徴されるイメージである。それは"太平洋戦争"というイメージである。ここで"太平洋戦争"とは、"大東亜戦争"ではないということだ。言葉の 分節化作用 に注意!
―空母ホーネットから出撃したドゥーリットル隊は東京を襲った後、中国大陸へ逃げた―
wiki: ドゥーリットル空襲
"太平洋戦争"という用語を作り、広めたのは米占領軍である。つまり、米国は、「先の大戦の主役は我々だ!」と分節化したのである。表玄関は太平洋。大東亜なんてのは、裏口だ!と。そういう観点からみて、太平洋戦争という言葉は、"実に象徴的な意味を持っているように思われる。"
この戦後に広められた"太平洋戦争"[1]というイメージが脳内における世界認識のフレーム(認識するための枠組み=パラダイム)となると、20世紀中半のアジア、太平洋地域における戦争を"太平洋戦争"というイメージで分節化するばかりではなく、19世紀後半の欧米列強による日本開国の圧力を理解する際に"太平洋戦争"というイメージが基となった脳内での世界認識のフレームとなるのである。敗戦は第二の開国であるという誤った認識が戦後に流布したのだ。敗戦で封じ込められ、在外の日本人は引き上げを強いられたのであるから、開国のはずがない。戦後日本というのはこういう奇妙な言語空間が成立した時空間のことである。他例に"天皇の人間宣言"という言葉=認識がある。
米国は太平洋を渡って来る。今も、昔も!という脳内での世界認識のフレーム(枠組み)となるのである。
だから、ペリー米国艦隊が上海から来たとは思いもしない。
別に、おいらは高坂正尭 高坂 正堯 大センセを謗っているわけばかりでもない。ぬんげんというものは、大センセであってさえ、いかに「自己の狭隘なイデオロギーや日常的意識を不断に反省する努力(西部邁)」を怠っているかを示すものであり、他山の石とすべしと思うだけである。
■ そして、海洋強国建設、 中国。
『海洋国家日本の構想』を熟読して、おいらもやってみよう!とがんばりはじめたのが、他ならぬ、中国さまである。
毎年10%を越える経済成長、 オリンピック開催、 万博開催、そして、海洋へ!
もちろんこれらは、東京オリンピック、大阪万博を襲った(=パクッた)ものに他ならない。
実は、お支那さまは、じっとぬっぽんを見つめていたのだ。 お内裏様としての、ぬっぽん。
そして、海洋強国建設、 中国!
これで、日中海洋国家連合ができるのか、つまりは、お内裏様とお支那さま、二人揃って海洋国家さま、
と思いきや、そうではないらしい。
なぜなら、『海洋国家日本の構想』の顕教は、自由経済、自由貿易であるが、密教は「嫌中&対米すがりつき外交」だからだ。
この『海洋国家日本の構想』が出版された1965年には、中国は大陸に引きこもっていたし、誰も中国が海洋国家を志向するとは想像もしなかったのだ。
そして現在、本音が「嫌中&対米すがりつき外交」のぬっぽんずんの海洋国家論者が、誰も日中海洋国家連合を主張しないのだ。
-べたなロンドン画像-
[1] 敗戦後は連合国軍最高司令部(GHQ)の指令により「大東亜戦争」の呼称が軍国主義と切り離せないという理由により使用が禁止されたため、「太平洋戦争」という呼称が広く使用されるようになり、