呉智英さん についてのネタ。前回は、愚記事: 呉智英さんへの恩返し。それに続くので今回の題は呉智英さん について[その2]とした。
おいらは呉智英さんを、ご ち え い さんとよんでいる。そもそも本名が何であるかなぞ、特に考えたこともなかった。うっすら、本名が呉=くれ さんなんだろうと無意識に思っていた。それを音読みさせているのだろうと。しばしば呉智英さんの本には、わざわざ、呉智英をご ち え いと呼んでも可!とうたっている。いわれなくても、ご ち え い と呼称していたよ。
で、呉智英さんの本名、俗名?、倭名?は新崎さんと知った。新崎智 [wikipedia]。なんだ、漢字1文字の支那・朝鮮風の名字じゃなかったのか!
ということは、呉智英さんは、本当は新崎さんというのであって、本名は典型的日本名である。支那文字が2文字で構成される。支那の姓には認められない。例外として思い浮かぶのは、オーヤンフィーフィーの欧陽ぐらいじゃないか。誰も新崎さんを支那人とは思わないだろう。
新崎さんじゃ~、論語の先生や「封建主義者」の名前として正当性や説得力が認められない。だから、呉という漢字1文字の支那・朝鮮風の名字を自分の意志で名前として選びとったのだ。例えば、ワン(王)さんの太極拳教室と、須藤さんの太極拳教室、どっちに行きたい? チン(陳)さんの上海ガニレストランと、吉田さんの上海ガニレストラン、どっちに客が集まる?
何もおいらは、親から受け継ぐはずの姓を「敢えて毀傷するは不孝のはじめなり」といやみをいいたいわけでもなく、ただただ言いたいことは、新崎智さんは漢字1文字の支那・朝鮮風の、すなわち、中華文明風の名前を 詐称 自称したかったことを指摘したいのだ。すなわち、呉さんは自分のキャラ立ちのために 詐称 自称したかったことを。
でも、おいらは、その心意気や、大好きである。なぜなら、sino-philia の気持ちが隠し切れないことが、わかるからだ。
* キャラ立ちぬ
呉のもんいうたら、... 呉のもんのくせに、かばちたれ@ホントは愛知(philosophy !)出身でも、魂は愛支(sino-philia )。
■ そして、支那。
1980年代初め、支那という言葉は、巷では、ほぼ廃語になりかけていた。
その「支那」廃名に対し、メディアの世界=公知の世界で、マイナーながらも、自覚的に確信的に抵抗していたのが、呉智英さんだ。
『封建主義、その情熱と論理』にある。
でも、おかしいと、おいらは、30年経って、ふと気づいた。
次のようなことだ;
日本人で「支那」という言葉を使う人は、おいらも含めて、いる。こういう理由だ。英語のChinaのように欧米語では秦から由来したChinaが使われる。だから日本も英語のChinaに相当する「支那」を使って何が悪い!
その中のある割合の人々は、中華人民共和国=中国という国号を使いたくないのだ。なぜなら、「支那」が中華なら、すなわちこの世の真ん中に咲く美しい花であるならば、その「周辺」のおいらたちは華の周りの草なのか!
おいらどもは、若芽薔薇の華のように美しい陰唇の周りに、ボーボー生えた陰毛なのか! つまり、おいらどもは、中心に鎮座まします若芽薔薇のような小陰唇さまである「中国=中華人民共和国」に対して、論理的必然的においらどもは周りにボーボー生えた陰毛なのか! という怒りがこみ上げるからである。 陰毛崛起!
普通の日本人は、毎日、中国と呼称することで支那人の自国中心主義的自意識を保持・維持することに奉仕する必要はない。
こういう理由や怒りは当然であり、なにも一般の日本人がかの国を、価値観がたっぷり含まれた国号である中国(中華の国)という言葉で、呼ぶ必要はない。
ただし、新崎智さんは違う。なぜなら、新崎智さんは呉智英と 詐 称し、支那人ぶっているからだ。 支那人ぶることは勝手である。 (毛唐さんぶって生きながらえている「ひと」だっているのだから。支那人ぶるか?毛唐ぶるか?、それが問題だ!。) ただし、支那人ぶるということは支那の栄光に浴したいということに違いない。孔子様だって、支那人だ。そういう支那の栄光に浴したい人は、すべからく支那を尊重しすべし。なぜなら、自らが文明から遠い周辺であるから、中心(この場合は=支那)を尊重するのである。自前で間に合うなら、神道でもなんでも身近なものでやりくりすればいい。
支那を中心に置き、尊重しないで、論語なぞを商売道具にしてはいけないのである。
だから、新崎智さんはよろしく「中国」とかの国を呼称すべし。 理屈を言って、中国・四国の中国と混同するから嫌だ!というのだろう。じゃあ、中華国でどうだ。ドンピシャじゃないか。孔子さまは中華の思想家。
孔子さまの国が世界の中央であり、華である。そして、新崎智さんは周辺にあり=教えを乞い、そして、『論語』を拝借して、生きるよすべにしているのだから。その結果、支那は中国となる、彼にとって。
それにしても、呉さんは支共に「魂を売れば」孔子学院の院長になれたのにね。
もちろん、誇り高い、一生フリーランスで完走しそうな、 革命家崩れ 元全共闘闘士に、そういうことを言ってはいけないのだ。
■ 支共
呉智英さんの話から、最近の巷での言葉遣いへ話を変える。
先日の 愚記事: 呉智英さんへの恩返しで、呉智英さんは支共ということばを使っている。
支共=支那共産党。日共=日本共産党、なので、支那という言葉にひっかかりがない人には何ら問題はない。おいらも問題はない。事実おいらは、愚記事で「おいらの支那共産党、略して「支共」に対する認識は、さんざん言ってきたので、いまさら言わない。」と使っている。
再確認すると、支共=支那共産党である。いうまでもなく、中共=中国共産党、である。そして、一般日本人にとって、支那という言葉は事実上「中国人民共和国」に等しい。 そういう言葉遣いの定義を踏まえて下記画像を見てみよう;
― ネット上で拾った「排外主義者」のデモらしい [出所不明] ―
「支那中共」、というのは変。 もし、いうなら、支共。
なぜ、「支那中共」というへんちくりんな言葉づかいが出現したか?を邪推するには、
彼ら=「排外主義者」は、"支那"という言葉も"中共"という言葉も侮蔑語として使っているつもりなのだ。
そして、その認識は間違っている。
でも、その間違いの原因は忖度できる。日ごろ、テレビで"支那"や"中共"という言葉を目や耳にしない。一方、そういう言葉はある。そういうことで彼らは"支那"や"中共"という言葉は使うことがタブーであると陰に陽に感じているのだ。そして、それらの言葉を敢えて使うことが挑発になると信じているのだ。
つまり、世間を挑発し、自分たちの過激さをアピールするために、わざとタブーの言葉を使ってみた。でも、その意味を本質的に理解していないので、「支那中共」というへんちくりんな言葉づかいとなったのだ。
関係ないけど、忘備; 本日3/9の午前11時頃、つけたラジオ:TBSラジオ 安住紳一郎 日曜なんとかのニュースコーナーで、理研の小保方さんの研究は「基本的アイデアの部分は問題ない」の趣旨を報道していた。
この報道の全部を残念なことに聞けなかったが、安住紳一郎さんは「研究の基本は問題ない」との印象を視聴者に与えたと、おいらは確信している。
後日放送倫理委員会でしっかりけじめをつけてほしい。