いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第258週

2019年10月19日 18時44分16秒 | 草花野菜

 

■ 今週の看猫

■ 今週の草木花実

■ 今週の世襲独裁親子


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https://twitter.com/shhcaa/status/1184987160652333056


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■ 今週、本屋でみた本


『<優勝劣敗>と明治国家 加藤弘之の社会進化論 』(Amazon). 2019/9/30発売。出版社の紹介文

紹介

「優れる者が勝ち劣れる者は敗れる、これ天理かな」
幕末に洋学者として出発し、維新後は明六社社員として立憲政治の啓蒙に努めるも、のちに天賦人権説を否定した東京大学初代綜理・加藤弘之(1836-1916)。加藤の唱えた社会進化論が明治国家の思想に与えた影響を考察、学者としての加藤の実像に踏み込み、近代日本の形成期における社会進化論と国体論との相克/親和を描き出す。

本屋に表紙を全面に立ててあった。あー、本になったのだと思った。著者は筑波大の助教で田中友香理という人で、博士論文を単行本化したと思われる。なぜ知っているかというと、こういうのを以前にネットで見つけたから;近代日本における進化論と国家思想 : 加藤弘之を中心として 。これは、学位論文審査報告書らしい。なぜこのpdfファイルにたどり着いたかというと、「加藤弘之 一の矢神社」でググると出たから。この学位論文審査結果には下記ある;

終章「成果と残された課題」では、大正2年と同3年に加藤が自分の祖先の地として茨城県筑波郡大穂村を訪問し、同地の一の矢神社に石碑を建立し扁額を奉納したことが、晩年の加藤の心象風景として紹介されたあと、本論文の成果と残された課題がまとめて提示されている

この一の矢神社は筑波大学のすぐそばにある。

 「加藤弘之 一の矢神社」の話は以前にした;愚記事:御蒜守 。そのとき書いた;

■ どうでもいいけど、リンク先を見て気付いた;
リンク先、一の矢神社の文章にある「老樹天を摩す境内には、加藤弘之博士の追遠碑等もみられます」加藤弘之(1836-1916)は、出石藩(外様)という超マイナーの藩の藩士で、しかしその頭脳で成り上がり、新政府では「東京学士会院会長、東京大学綜理、帝国大学総長、貴族院議員、帝国学士院院長、枢密顧問官」になった人。維新の志士と同世代の人。山県有朋より2歳年上。学術で出世。出石藩とは今の兵庫県の日本海側。城崎温泉があるところ。

加藤は、筑波山麓とは関係ないはずで、かつ「加藤の思想は現実的で、終世唯物論者だった」にもかかわらず、祖先が筑波山麓の出自である(小田家家臣?)とし、筑波山麓に碑を建てた(出典は忘れたがつくばの郷土史の本だったとおもう)

 今でも、加藤弘之の思想内容は知らない。出版社と著者には悪いが、価格が高く容易く購入できないので、図書館に入ったらのぞいてみたい。

 さて、加藤弘之についてその後知ったことは、『福翁自伝』、福沢諭吉の自伝、に活写されていること。加藤弘之って今の人は知らないだろう。福沢諭吉の知名度に比べると雲泥だ。加藤弘之の方が「出世」、学者としては官位を極めたのにもかかわらず。wikiには、例えば、1873年(明美たれ治6年)には福澤諭吉、森有礼、西周らとともに明六社を結成、とある。でも、そもそも幕府で一緒だったのだ。二人とも、幕府に「出仕」していた。そして、薩長によるクーデター、鳥羽伏見の戦い。慶喜が大阪から江戸城に逃げ帰ってきたときの江戸城でのことが『福翁自伝』には書いてある。

 さて慶喜さんが京都から江戸に帰って来たというその時には、サア大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医者も坊主も皆、政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見たればただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。(中略)私は時勢を見る必要がある、城中の外国方に翻訳方などの用はないないけれども、見物半分に毎日のように城中に出ていましたが、その政論流行の一例を言ってみると、ある日加藤弘之と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人が裃を着て出て来て外国方の役所に休息しているから、私がそこへ行って、「イヤ加藤君、今日は裃で何事に出て来たのか」と言うと、「何事だって、お逢いを願う」というのは、この時に慶喜さんが帰えって来て城中に居るでしょう、ソコでいろいろな策士論客忠臣義士が躍起となって、上方の賊軍が出発したから、何でもこれは富士川で防がなければならぬとか、イヤそうでない、箱根の嶮阻に拠って二子山の所で賊を皆殺しにするがいい、東昭神君三百年の洪業は一朝にして捨つべからず、吾々臣子の分として、義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若かずなんて、種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気焔を吐く者が多いから、言わずと知れた加藤らもその連中で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が「今度の一件はドウなるだろう、いよいよ戦争になるか、ならないか、君たちにはたいていわかるだろうから、ドウゾそれを僕に知らしてくれ給え、是非聞きたいものだ」「ソレを聞いて何にするか」「何にするッてわかっているではないか、これがいよいよ戦争に決まれば僕は荷物を拵えて逃げなくてはならぬ、戦争にならぬと言えば落ち付いている。その和戦如何はなかなか容易ならぬ大切なことであるから、ドウゾ知らして貰いたい」と言うと、加藤は眼を丸くして「ソンナ気楽なことを言っている時勢ではないぞ、馬鹿々々しい」「イヤイヤ気楽などころではない、僕は命がけだ。君たちは戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻逃げていくのだから」と言ったら、加藤がプリプリ怒っていたことがあります。 (『福翁自伝』、強調、おいら)

この後、加藤は新政府に出仕。男爵になるまでのことはwikiに書いてある。福沢は新政府に出仕しなかった。頼まれたのに。理由は新政府が攘夷だからという。

 まとめ


   優勝           劣敗

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