いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

横浜散歩;東戸塚駅→こども植物園→英連邦戦死者墓地→弘明寺駅

2019年10月27日 17時52分29秒 | 東京・横浜

JR東戸塚駅(戸塚区)から弘明寺(ぐみょうじ)駅(南区)まで散歩。上の地図にあるように横浜の南部。第一目的は「横浜こども植物園」に行くこと。「横浜こども植物園」を経由する散歩経路を考えた。JR東戸塚駅と弘明寺駅(京急、市営地下鉄)を始点・終点とすることにした。

 
1:JR東戸塚駅、5:横浜こども植物園、6:英国連邦戦死者墓地、11:弘明寺、黄色破線:下末吉海進時の汀線

この散歩経路の大部分は多摩丘陵域であり、弘明寺の近くが下末吉台地。多摩丘陵と下末吉台地の境界は、12万年前の下末吉海進(wiki)の時代の汀線。現在の地形上の表面上の特徴からはこの境界は直感的にはわからない。弘明寺付近は谷底平野。縄文海進時に堆積が生じたところ。

● 1:JR東戸塚駅5: から 5:横浜こども植物園 まで


1東戸塚、2、5横浜こども植物園

■ 1.JR東戸塚駅

・東戸塚駅から東へ。斜面を行く。坂は緩い。

■ 2. 環状2号


環状2号に行き当たる。


環状2号

▼環状2号を右折。再び東へ。斜面を上がる。



平戸4丁目付近。尾根の最高地。ここを超えると下り坂。

■3. 平戸3丁目


このあたり、谷筋。南北方向に川が流れている。跨いで、東へ。


再び、尾根を上る。


振り返る。

■ 4. 国道1号。平和台交差点付近。

国道1号を北上。

■ 4. こども植物園


紙でつくった柿オブジェ。

コムギの研究で知られる遺伝学者の木原均は、静岡県三島市の国立遺伝学研究所所長への就任を機に、京都府の物集女にあった研究所の横浜への移転を1955年に決定。1957年5月、当地に敷地面積1万坪(33000m2)の研究所を開設した。1970年、横浜市は敷地の一部を購入し児童の理科学習や教職員の研修所として利用した。1974年に管轄が教育委員会から緑政局に移り、1976年に都市緑化植物園としての都市計画決定を受けた。国際児童年を記念して、1979年(昭和54年)6月23日に開園した。 (wikipedia


木原均(wikipedia

▼ 植物園を出る

● 6:英連邦戦死者墓地 から 11:弘明寺駅 まで

■ 6.英連邦戦死者墓地

戦中、日本国内で死亡した連合軍捕虜約3500人のうち、アメリカ人とオランダ人の遺骨は戦後母国に持ち帰られましたが、イギリス、オーストラリア、カナダ、インド、ニュージーランドなど英連邦の人々の遺骨は横浜の英連邦戦死者墓地に埋葬されました。

英連邦戦死者墓地の敷地は、戦前は横浜市の児童遊園地でしたが、戦後進駐軍に接収され、1951年のサンフランシスコ講和条約によって、ここを英連邦の戦死者墓地にすることが決められました。土地は日本政府の所有ですが、イギリスに本部を置く英連邦戦死者墓地委員会に永久無償貸与され、同委員会が管理しています。

13ヘクタールの広大な敷地は、イギリス区、オーストラリア区、カナダ・ニュージーランド区、インド・パキスタン区、戦後区に分けられ、各区に1人1人の墓碑が整然と並んでいます。墓碑には氏名、部隊名、階級、認識番号、死亡年月日、年齢、遺族の言葉などが刻まれています。またイギリス区の一角にある納骨堂には、南方から捕虜輸送船で門司港に到着した直後に死亡した335人分の識別不能の遺骨が合葬されており、この中にはアメリカ人48人、オランダ人21人の遺骨も含まれています。この墓地全体の被葬者は約2000人ですが、うち約1700人が捕虜として亡くなった人々で、その他は戦後進駐軍として駐留中に死亡した人々や朝鮮戦争の犠牲者です。

引用元: POW研究会 英連邦戦死者墓地

 ▼ 墓地を出る

■ 8.永田台

■ 8.永田みなみ台

9.永田南の斜面を下る

▼ 平戸桜木道路


京急 弘明寺駅


弘明寺商店街 http://www.gumyouji-shoutengai.com/


地下鉄弘明寺駅

おしまい。