いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

忠米外交官 松田慶文 さんはその後どうなったのか? 相模原戦車輸送阻止闘争 - 1972

2020年08月10日 16時48分51秒 | 日本事情

1972年の米軍戦車搬出阻止「事件」というのがあった。ベトナム戦争時、修理のため米軍相模原補給廠に往来した戦車輸送を阻止した事件。重要な点は、反戦を理由に、ただ妨害したのではない。その輸送が道路交通法に違反していることを理由に、法に従い、阻止しようとしたこと。法と秩序!ある種の順法闘争であった。社会党の飛鳥田横浜市長が先頭に立って、阻止を行った。wikiに下記ある;

戦車搬出阻止闘争(せんしゃはんしゅつそしとうそう)は、ベトナム戦争終盤の1972年、主に神奈川県相模原市にある在日米陸軍相模総合補給廠の西門前と、横浜市道の村雨橋(神奈川区)付近の2拠点で起きた市民による政治闘争。米軍がベトナム戦争で破損した戦車を相模総合補給廠で修理した後に再び戦地で使用すべく横浜ノースドックへと輸送していたため、当時、戦車積載のトレーラーが両拠点を往復していたが、日本国内の反戦運動の世論を受けて、この輸送を約100日の間、中止させるに至った。「戦車輸送阻止闘争」「戦車闘争」「村雨橋事件」「村雨橋闘争」「相模原闘争」などとも言われる。 wikipedia

その解決は;

10月17日「車両制限令は米軍と自衛隊の車両には不適用」という政令改定の閣議決定を受け、安保条約違反問題等々は議論を深めることのないまま、村雨橋の簡易的な補強工事を経て、11月8日夜よりM48戦車を含む戦闘車両の輸送が完全に再開された。(上wiki)

で終わった。 法と秩序! 動画があった;

32 - 相模原戦車輸送阻止闘争 - 1972

さて、この事件は日本政府の法律改正で解決を見た。この解決に関する情報を最近知った;

ベトナム戦争は日本でも不人気であった。何と云っても、日本では「ベトナム戦争はアメリカが勝手にやっていることであり、始末も自分でやったらよかろう。日本は安保条約を通じて迷惑ばかり蒙っている」と云うのが一般の底流である。確かにベトナム戦争は日本にもいろいろな形で影を落としていた。例えばその年の八月初めから十一月初めにかけて、相模原補給廠から補修済みの戦車をベトナムに輸送するため搬出すると云う問題について、烈しい反対運動が起きた。その処理に当たった外務省安全保障課の松田慶文課長の骨折りは誠に大変なものであった。(東郷文彦、『日米外交三十年 安保・沖縄とその後』)

外務省の松田慶文 さんという人が「法を変えて」、戦車をベトナムに無事送れるように尽力したとわかる。米国に隷属した""の外交官らしい振る舞いだ。法は変えればいいのだ、米国への隷属のために。さて、「米国に隷属した国、平たく言えば属国」とは、反米ウヨらしい口ぎたいもの言いをするものぞと、首をすくめる貴兄が多いとは思う。しかしながら;

よって私は五十二年(1952年)四月二十八日に、日本は、こと防衛に関する限り、これからも長期に米国に隷属した国、平たく言えば属国でありつづけると認識した。

と云っているのは、駐米大使、事務次官まで務めた the 外交官さまなのだ(後述)。

■ その松田慶文 さんはその後どうなったのか?

ネットでググった。

松田 慶文   大使 平成01(1989)年05月22日~平成05(1993)年01月20日

 

在デンマーク日本大使館 web site より

(でも、平成01年ってひどいな。外務省文学ではこうなのか?)

一方、リトアニア大使(ソース)、フィリピン大使(ソース)も歴任したとのこと。そして、外郭団体に天下り;社団法人国際交流サービス協会会長(ソース)。

■ 忠米外交官 松田慶文 さん

 米軍のためなら法を変えればいいという考えで尽力した松田慶文 さんは、戦後日本の外交官らしい人だとおいらには思える。

 おいらは、外務省の人はみんな「アメリカ真理教」なのだろうと思っていた。10代の頃、岡崎久彦、『戦略的思考とは何か』を読んで以来だ。一方、あの孫崎享さんが岡崎久彦と同じポストの後継者と知って、????と思ったこともある。でも、駐米大使、事務次官まで務めた村田良平は、彼の同期で無二の親友らしい岡崎を孤高の人と評している。もっとも、あの孫崎享さんも外務省では孤高の人なければ困るのだが!!!???。さて、

よって私は五十二年(1952年)四月二十八日に、日本は、こと防衛に関する限り、これからも長期に米国に隷属した国、平たく言えば属国でありつづけると認識した。

と云っているのは、前述の岡埼久彦と外務省で同期の、駐米大使、事務次官まで務めた村田良平さんだ。

 米軍にしてみれば、占領当初の日本の非軍事化という目的は十二分に達成したものの、日本列島の各要地に、代替不可能といっても良い軍事基地を手にしている以上、これを恒久化しようととの願望が生まれたとしても何ら不思議ではない(施政権を返還した後の沖縄についても同じことが言える)。
 このために、不幸なことに、米国では、予算節約や純軍事的見地といった米側のみの都合から整理したものは別として、日本占領で一旦手に入れ一層整備拡大した基地はそのまま保持することが当然視された。独立国から軍事基地を提供してもらうことに際して当然払うべき配慮、遠慮、評価、感謝といった心理が生まれないままだったと言える。そして、日本政府も当初の”止むを得ない”という感情をそのままずるずると持ちつづけた。それ以後現在まで五十六年間、この日米間の了解が、抜本的な見通しのないまま今日に至っている。日米安保体制の実質はその後かなり変化しているが、その発足時の日米双方の心理的な受取り方は、途中一応の条約の改正はあったものの、今日まで五十数年間変わっていないことは実は歴史的にも極めて異常な状態なのである。
 また、米軍は名目上は日本防衛にも当るとはいえ、米軍の日本駐留は米国自体の国益のためであり、かつかかる状況が恒久化したのは大東亜戦争で日本が早期降伏の機会を逸して完敗し、ポツダム宣言を受諾したための日本の完全な武装解除と日本全土の六年以上にわたる占領の結果であることも、これまた否定できない。よって私は五十二年四月二十八日に、日本は、こと防衛に関する限り、これからも長期に米国に隷属した国、平たく言えば属国でありつづけると認識した。不幸にして冷戦の継続もあり、私のこの認識は、今日に至っても基本的変化はない。(『村田良平回顧録  -戦いに敗れし国に仕えて- 上巻』2008年)

こういう認識は外務省の主流なのか?傍流なのか? 事務次官までなったのだから傍流ではないのだろう。ということは、孫崎さんは、案外、主流派?