この絵地図は江戸時代の現在のつくばの仙台伊達家の領地(いわゆる伊達家常陸領)。村の数で4つ。東から、大砂、西高野、吉沼、大薗木村。吉沼と大薗木村の間には南北に小貝川が流れる。さらには、大薗木村は「国」が違う。下総の国。現在の地図を下に示す。わかりやすさのため、「西高野」を赤線で囲んである。なので、その左右が吉沼と大砂。
各村の石高は、吉沼(2,600石)、西高野(617石)、大砂(288石)、大薗木村(296石)。(1石は(昔、江戸時代に)おとなひとりが1年間で食べるお米の量(容積)で、約160kg [ソース])。なので、例えば、吉沼2,600石は、半分年貢で取られたと仮定して、残り1,300石。つまり、約1,000人が生きていける生産量・経済規模らしい。
さて、この絵地図を初めておいらが見た時、村というのは島宇宙みたいだな、と思った。そして、各村が孤立、分離していることに印象を受けた。当時、「鉢植え大名」ということば知ってした。「鉢植え大名」とは荻生徂徠の言葉。大名を土地に根付かせず、転封して、幕府にとって扱いやすくすること。扱いやすい政治単位を示す。なので、この島宇宙のような村は、村ごとにまとまってどこかの大名に属する。だから、この4村は、行ったこともない仙台の大名家に属したのだろうと漠然と思っていた。
最近知った;「村切り」
太閤検地およびそれに続く江戸時代初期の検地によって,村の境界を定め,村落の範囲を確定すること。同時に,それまで錯綜していた集落と耕地の関係を整理し,耕地を集落周辺に集中させた。これによって村請制を可能とする行政単位としての村落が成立した。村切にあたっては,中世以来の用水・山野入会権など生産共同体の諸要素を考慮したため,単独集落で一村をなす村や,広い範囲にわたり,複数の集落で構成される村など様々であった。村切によっても耕地の入組整理が徹底されなかった場合,境争論のもととなった。(出典)
初めて知った。島宇宙的村は近世の制度的成果なのだ。
村切りを初めて知ったのは、ある経済史の本にあったからだ;
ここでは17世紀に徳川政権が作り出し、江戸時代をつうじて機能した二つの制度[1]を想起しておこう。
その第一は、自立的な行政単位としての村の確立である。16世紀末以降、新しく生まれた中央集権的権力は、それまでの重層的な土地所有・保有を将軍家または藩の一元的所有に転換するとともに、村民には、彼らが年貢米を支払う限り、行政上の自治が与えられた。戦後時代の武将や土地所有者階級には、城下町に移って、土地から分離された武士階級となるか、あるいは村に残るかの選択肢が与えらえた。だが、この兵農分離だけなら、なお大土地所有の可能性は残されていたかもしれない。しかし、村の境界線は相当厳格に管理されたので、土地の集積も村を越えることは全体としては少なかった。これがいわゆる「村切り」である。そのために、少なくとも行政単位上は、土地市場の発達と資本蓄積が大きく制限されることになった。 杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』
[1] もうひとつは鎖国 (「国切り」!)である。
江戸時代の村人は「御武家さま」と一生会わなかった人も多いのだろう。年貢を払えば、自治が認められていた。つまりは、日本江戸時代農民は農奴、ましてや奴隷ではないのだ。そして、この個別自治村に細分化された江戸時代社会は、その個別自治村で農民が一生懸命働いて経済発展していく「勤勉革命経路」[google]をたどったというお話だ。切られた村は「勤勉革命」の実現のためのトポスというお話だ。