横浜港から都内に散歩した。 動機は福沢諭吉の跡追い・追体験・諭吉ごっこ
福沢諭吉の自伝、『福翁自伝』の安政六年(1859年)の「実に落胆した」出来事についてこう語っている;
御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行ってその晩の十二時に帰ったから、丁度一昼夜歩いた訳[わ]けだ。
これはもちろん、福沢諭吉の有名なエピソードで、オランダ語をさんざん勉強して、江戸にやってきて、幕府が開国、開港したので、横浜に実際に行って外国人の様子を見聞に行ったが、オランダ語なぞ使われておらず、英語、フランス語が使われていて、落胆したという話。
当時、諭吉は築地、鉄砲洲の中津藩邸に暮らしていた。そこから、24時間で横浜港まで行って、帰ってきたのだ。もちろん、歩きだ。
この話を読んで、横浜港から江戸・築地、鉄砲洲まで歩くとはどういうことか感じるため、やってみることにした。
結果、(片道さえも)挫折した。 諭吉、健脚だな、とわかった。
A. 関内駅 ⇒ 生麦事件発生現場
A-1 関内駅 ⇒ 横浜市中央卸売市場
7:20 関内駅
横浜ランドマークなど。 ランドマーク(左)の横の建物はアパホテルと知る。 アパホテル、(企業の成長が)すごいな、と思い会社総資産を今ネットでみたら、事業価値の評価は、1兆1000億円(2017年)の情報あり。
普請中
この特異な陸橋、横浜みなとみらい 新港サークルウォーク、と今調べてわかった。
平成11年(1999年)土木学会田中賞(作品賞)受賞
8:10 横浜市中央卸売市場。 そとの通りから構内をみた画像。自転車で通勤の人。
A-2 横浜市中央卸売市場 ⇒ 生麦事件発生現場
神奈川公園。 場違いな緑地だったので、少し入ってみた。
9:20 生麦事件発生現場
生麦事件現場付近の今 (下記コピペの事件概要と画像は関係ありません)
生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期(幕末)の文久2年8月21日(1862年[1]9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。 (wiki) つまり、(異人4人のうち)3名殺傷
福沢諭吉が1日(24時間)で江戸と横浜を往復した安政六年(1859年)は、生麦事件がおきた文久二年(1862年)の3年前。生麦事件がおきた時、諭吉は2度目の海外渡航でフランスにいた。
B. 生麦事件発生現場 ⇒ 蒲田
B-1 生麦事件発生現場 ⇒ 蒲田
旧東海道=生麦魚河岸通りを行く;
9:30 国道駅
川崎へ
川崎消防署は「橄欖」的ガラス [psudo-peridotite !]が好きらしい。
10:40 多摩川。 六郷橋を渡る。 諭吉の時代は渡しだった。
東六郷2丁目北交叉点。入京の証=警視庁車をみる。
旧東海道=国道15号を北上。京急蒲田駅 ↑、 呑川 ↓ 。
B-2 蒲田 ⇒ 北品川
13:30 鈴ヶ森刑場跡
14:45 目黒川を渡る
B-3 北品川/東海道北品川交差点 ⇒ 港区港南3丁目
15:00 天王洲アイル
天王洲ふれあい橋
雨が降ってきた。
15:40 港南三丁目
この先、築地、鉄砲洲まで5kmほどあるが、挫折。 バス(ちいばす)で田町駅へ。電車で、帰る。
● まとめ
今回の散歩の歩数
午後から歩行速度激減。