いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第463週

2023年09月30日 18時00分00秒 | 草花野菜


箱入り娘です

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第463週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のよその猫

■ 今週の富士山

■ 今週の草木花実

■ 今週の交換

自転車のブレーキシューを交換した。

■ 今週の半額、あるいは、道産品

よつ葉と聞くとすぐ続くのが「3.4牛乳」。でも、今は、ないのだ。「よつ葉3.4牛乳」は1987年に消えたのだ。おいらが、離道した後だ。知らなかったのだ。そして、テトラパック牛乳も今はこの世にないらしい。


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■ 今週借りて読んだ本、あるいは、「最後の誕生日の風景」

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松浦芳子、『自決より四十年 今よみがえる三島由紀夫』。著者の松浦芳子は政治家。杉並区議会議員。チャンネル桜の創設発起人とある。wiki。持丸博(wiki)の妻。若いころ、三島由紀夫とつきあいがあった。持丸博は、森田必勝の先代の盾の会の学生長だった。持丸博は、元もと、「論争ジャーナル」という右派学生が創った雑誌の編集人。『論争ジャーナル』を作ったのは、中辻和彦。三島は原稿料を取らずに、この雑誌に貢献した。松浦芳子は持丸博との関係で『論争ジャーナル』の編集部に出入りする。昭和42年(1967年)以降、三島由紀夫も週一の頻度で『論争ジャーナル』の編集部に出入りしていたらしい。そこで三島と松浦芳子のつきあいが生じた。そこには右派学生が屯していた。そして、三島は、この雑誌の周辺にいた若者たちを盾の会の会員とした。しかし、中辻和彦と三島は仲違いする。その事情は、松村剛、『三島由紀夫の世界』に見える;

昭和44年(1969年、三島自決の前年)のこと

「この年の夏のころ、日本文化会議の理事会か何かの席で三島と顔を合わせたら、彼が『中辻を呼んであるから、あとでつきあってくれよ』と耳元で囁いた。
 中辻和彦は昭和41年の暮に三島の家を訪問した萬代潔の仲間で、『論争ジャーナル』の編集責任者だった。何の用事かと思って会がおわったあと三島について行くと、行きさきは赤坂プリンス・ホテルの喫茶室だった。席に座るなり、彼は中辻君を面罵した。
  『君は雑誌なんかやめて、リュックサックを背負って田舎に帰れ。』
 理由は、三島は何もいわなかった。中辻和彦もだまっていたところから見ると、2人の間ではそのまえにはなしあいがあったのだろうと思われる。
 ある右翼系の人物から『論争ジャーナル』が財政上の支援を受けていたことが三島を立腹させた原因だったと、これもあとになってからきいた。多少誇張癖のあるその人物は、『楯の会』は自分が養っていると吹聴し、それが三島の耳に伝わったのである。『論争ジャーナル』関係の若者たちは『楯の会』の中核を構成していたし、会の事務所自体も編集部内におかれていたから、2つの組織は緊密に結びあい、雑誌が金をもらえば会の純粋性にも傷がつく。
 『楯の会』を外部からの金銭上の援助なしに独力で運営して来た三島にとって、これは許し難い背信の行為だった。絶縁宣言の立会人として、僕はその場に呼ばれたらしい。 松村剛、『三島由紀夫の世界』

この「ある右翼系の人物」とは誰であったのか? それは、田中清玄であったと、松浦芳子、『自決より四十年 今よみがえる三島由紀夫』には書いてある。

三島は中辻と絶縁したが、持丸夫婦には期待していた。三島の費用負担で、盾の会の専従にならないかと打診があった。持丸は断った。そして、盾の会と論争ジャーナルの両方と縁を切ったと、『自決より四十年 今よみがえる三島由紀夫』にある。

三島と持丸、そして中辻の溝、あるいは不一致で興味深いのは、信条的問題、あるいは、認識問題。具体的には、226事件の評価。三島は226事件の昭和天皇による解決方法を肯定していなかったとのこと。一方、持丸、中辻は平泉澄一門で、昭和天皇による226事件鎮圧を支持。その国体観の相違で、持丸は三島と袂を分かったというのだ。

▼ 「最後の誕生日の風景」

昭和45年(1970年)11月21日に自決した三島由紀夫の最後の誕生日は、同年1月14日であった。この誕生日を三島は友人の村松剛の自宅で祝う;

 四十五歳の誕生日を、三島は拙宅(村松剛の集合住宅の家)で迎えた。
 昭和四十四年の暮にぼくは住居を移し、年が明けてから二、三の友人とともに彼を新居に招いた。その日、一月十四日が、たまたま三島の誕生日にあたっていたのである。彼はグラナダで買ったという小型のテーブルを、引越しの祝いとしてもって来てくれた。 松村剛、『三島由紀夫の世界』

松村剛、『三島由紀夫の世界』に書かれていることは以上で、誰が参加したのか、三島がどのようないでたちで来たのかは書かれていない。さらに、事実関係として「たまたま」三島の誕生日であったというのも不正確かもしれない。詳細はこうだ。ここで、杉野とは、杉野栄仙であり、村松剛の妻であると、松浦芳子はいう。かつ、それは雅号だというのだ。ネットでは裏が取れない

杉野 最後の誕生日ですか・・・昭和四十五年一月十四日でしたよね。あれから三十年経ったのですね。
ある会で、突然三島さんから、「僕の誕生日のお祝い、村松さんちでしてくれない?」って言われたんです。
松浦 でも、お誕生日って、ふつうご家族でお祝いするじゃないですか。ひとのうちでお誕生日何ておかしいですね。
杉野 「家族だったら、毎年やっているでしょ。たまには、違った顔でやってみたい。」とおっしゃたのですよ。
松浦 そうですか
杉野 するのは良いけれど、瑤子夫人に許可を得ておいてくださいね、って言って、それでは、その日、どなたをお呼びしましょうか、とお聞きしますと、「大勢よばないで」と言われたのです。
それで、「自分の担当の、新潮の新田さんと、」と言われて・・・・・

それで、三島さんと、新田さんと、阿川さんと、村松との四人だけで、麹町の村松のマンションでお祝いをしたのです。

ヨーロッパ調の三十センチ四十センチぐらいのテーブルを肩に乗せて、盾の会の制服を着てたんです。
松浦 え!! 制服でいらしたのですか?本当ですか?へー 制服で歩いていらしゃったのですか?杉野 車でいらっしゃいましたよ。制服を見てね。「似合わないわそれ!だいたい豚のしっぽみたいな短剣がおかしいわ。どうしてそんな短い短剣しているのですか?」とお聞きしましたらね、
「これ以上長いと警察が、うん、と言わないのだよ」とおっしゃって・・・・。

以上から、集まったのは三島、新田、阿川、村松とわかる。そして、三島は、盾の会の制服で来たのだ。これは奇抜だったのではないか?新田、阿川、村松らは驚いたはずだ。でも、村松は『三島由紀夫の世界』で報告していない。村松は三島伝で、三島の同性愛と右翼を無視、あるいは軽視していたといわれる。これもその思想をもとにした村松による三島像づくりではないか。

▼ 最後の誕生日の前に誕生していた最後の言葉:「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな

上記の松浦芳子と杉野栄仙との対話でその最後の誕生日の少し前の時期の話として杉野栄仙が重要な証言を行っている。

『天人五衰』の、最後の章が、出来あがったと聞いたのが、誕生日の前の暮れなんですけれども・・・・「やっと最後の言葉が出来て自分でも痛快だ。とても気持ちがいい」と、三島さんが、漏らしたことがあったのですよ。
(中略)
『天人五衰』というのはね。もうこれ以上はやっても駄目なんだ、ということです。だって、今の日本の状態を見通していたのですもの。

『天人五衰』は三島最後の作品で、昭和四十五年十一月二十五日に完と書かれている。自決の朝に、編集者に約束の時間を騙し、お手伝いさんに託して、原稿が渡された。

▼ 三島さんを殺した

この松浦芳子、『自決より四十年 今よみがえる三島由紀夫』はすごい。村松剛の妻とされる杉野栄仙の発言;

リーダーを作ろうと計画していたのを、ことわったのは、持丸さんですよ。三島さんは、持丸さんに、期待していたと思うのよ。ということは、持丸さんが、三島さんを殺したということも、なきにしもあらず、と言うことですよ。

松浦は絶句。

▼ 杉野栄仙の発言に疑問

杉野栄仙は三島の自決の日に村松剛はカナダ、トロントに出張していて日本に不在であったと語っている。でも、村松剛は『三島由紀夫の世界』で自分は香港、船上にいたと書いている。さらに、1970年1月の三島最後の誕生日会について、杉野栄仙はその誕生日会のあとすぐに村松はトロントに行く予定であったと云っているが、村松の年譜の情報と一致しない。結構、ちぐはぐである。



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