▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第462週
■ 今週の武相境斜面
■ 今週の草木花実
■ 今週のもったいない本舗
大きな袋だった。
10月、神無月の絵柄は、流鏑馬だった。鬼はいなかった。
■ 今週の宣伝と中身の異同
箱買いしたジュリーズの オーツ25 ストロベリーが残りひとつとなってしまった。
ジュリーズ オーツ25 ストロベリー(Amazon)。広告や包装の絵図は赤い粒が鮮やかに輝いている。でも、現実は上、画像。
■ 今週のいろいろの最後の2個
Google [お菓子のシアワセドー 喫茶去 240g] なお、「喫茶去」とは、「まあお茶でもお飲みなさい」という意味(和楽 web)
桃山(左)と満月
詳細は:⇒ 懐かしいお菓子ブログ(画像有り)ー時代遅れ団塊ジュニアのブログ 様 [懐かしいお菓子]お菓子のシアワセドー「和菓子の音色(和菓子のアソート袋)」を食べて画像撮りました。
■ 今週知ったライン:帝国海軍航空隊、谷田部ー神町
米陸軍、第11空挺師団の敗戦後の日本占領での駐屯基地を調べていたら、Jimmachiというのがあった。
Places of Significance in the History of the 11th Airborne Division in World War II
ググると山形県の現在神町駐屯地 [wiki]とわかった。自衛隊の駐屯地であり、進駐軍の基地でもあったのだから、旧軍の基地なのだろうと察しがついた。wikipediaで調べると、敗戦前は神町海軍航空隊の基地とわかった。上の情報によると、神町駐屯地は米軍によって Camp Younghans と名付けられていた。なお、上表の左の「Tounghans」のTはタイポスである。wikipediaの神町駐屯地(日本語)とJGSDF Camp Jinmachi(英語)では記載情報が違う。英語版には、 Camp Younghans のことが書いてある。日本語版には、キャンプ・ヨンハンスの語はみえない。
この施設は、第二次世界大戦後、日本の降伏後の1945 年にアメリカ軍に接収されました。この基地は当初、第11空挺師団の第674空挺砲兵大隊が占領し、 1945年3月31日にフィリピンのルソン島で戦死したレイモンド・M・ヨンハンス中尉にちなんでキャンプ・ヨンハンスと名付けられた。(JGSDF Camp Jinmachi(英語)の機械語訳)
さらに、この神町海軍航空隊は、谷田部航空隊の下部組織と知る。谷田部航空隊は現在のつくば市にあった基地。愚記事に「旧谷田部航空隊跡地」ある。谷田部海軍航空隊(wiki)。
なお、現在、つくば市の谷田部航空隊の基地は占領軍に接収されなかったようだ。緊急開拓地となった。愚記事:「今日はつくば記念日;松竹梅のつくば戦後開拓集落について」参照。
■ 今週の御達者倶楽部
https://twitter.com/nahotoyamamoto/status/1705211613039698248
十代の頃、アダルトビデオが蔓延しているわけでもなく、まして、ネット・スマホでAV動画が気軽に見れる時代でなかった頃、おいらは、オンナの裸目当てに見ていた深夜番組「トゥナイト」で、利根川裕が「今日、小林秀雄が死にました」と感慨深げに言ったのを覚えている。「書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした」ばかりの頃だった。
■ 今週の購書 1868年と1937年の皇軍
村松剛、『歴史に学ぶ』、1982年。Amazonでは500円ほどで売ってる。おいらは、もったいない本舗から919円、ポイント利用割引を使って、実際は、321円で購入(送料込み)。この本を買った理由は、村松が会津について語っていると知ったからだ。保守派、右翼は明治維新をどう語るか?特に、会津をどう了解するかは、傍から見ていて、興味深い。村松は、会津に同情的である。薩長をほぼ「鬼畜」扱いしている。
会津城下にはいってからの官軍は、婦女子への強姦輪姦をほしいままにしていた(この事態は、落城後までつづく)。元和堰武(げんわえんぶ)[1]以降、徳川幕府支配下の日本は治安がきわめてよく、戊辰戦争がはじまってからも会津が暴虐を働いた場所はほかにない。要するに会津人の立場からいえば、史上類を見ない無頼の集団が、錦旗をかかげて乗り込んできたのである。 [1] 元和堰武(げんわえんぶ): wikipedia 村松剛、『歴史に学ぶ』 会津の悲劇
この記述を今の我らがネトウヨさんが読んだら、どう反応するだろうか?もっとも、我らがネトウヨさんの日本デヴューでの初陣は、『戦艦大和の最期』を読んで、吉田満を「サヨク!」、「反日!」よばわりしたことだ。
さて、唐突だが、最近のユダヤ系英国人戦略学者の見解を見てみよう;
一九三七年十二月(十三日)に日本軍は街(南京)を占領した。彼らは入城したとたんにやりたい放題の状態となり、約六週間にわたって殺人、略奪、強姦を行った。彼らは国民党軍の軍人を探すためと主張したが、それでも残虐行為を正当化することはおろか、それを説明できなかった。今回は「ニューヨーク・タイムズ」紙のF・ティルマン・ダーティン記者が自分の目撃した恐怖を語っている。彼はこの激しい暴力を「戦略的なもの」であるとして「日本軍は、日本に抵抗した結果の恐ろしさを中国人に印象づけるために、できるだけ長く惨状を残したいと考えているようだ」と説明している。 L・フリードマン、『戦争の未来』2017年(奥山真司 訳 2021年)、第6章 総力戦
会津と南京で「活躍」したのは、我らが「皇軍」である。もちろん、村松剛は1868年と1937年の皇軍を同一視をしていない。薩長軍は赤軍に同一化されたのだ;
薩長の藩兵が会津で行ったことは、第二次世界大戦の末期にソ連軍が満州やベルリンで行ったこととほぼ同じである。掠奪強姦が、白昼あたりまえのようにくりひろげられた。 村松剛、『歴史に学ぶ』 会津の悲劇
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