いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1945年夏の敗戦、東京入城の米軍は八王子方面から

2020年03月22日 09時58分56秒 | 日本事情


画像1:  General William C. Chase and private Paul Davis ; チェイス少将 (右) とデイビス上等兵

Yanks Enter Tokyo: U.S. Soldiers in Japan (1945) | British Pathé

1945年(昭和20年)の敗戦時、東京に入城した米占領軍(第一騎兵師団)は八王子方面から来た。

米占領軍の東京入城は1945年9月8日(米陸軍第一騎兵師団;その模様は、上のYouTube; Yanks enter Tokyoで見れる)。米陸軍第1騎兵師団は、”マッカーサーのペット”と呼ばれた精鋭の機甲部隊 [1]。
 一方、マッカーサー元帥は、護衛軍(第11空挺団ら)と共に、その日(9/8)に東京に入り虎ノ門の米国大使館で星条旗掲揚式典を実施。


図2 赤星;厚木飛行場、 青星;多摩川・丸子橋

マッカーサーは8/30に厚木飛行場で日本に降りたった。この時、護衛のために空路で一緒に厚木に来たのが、第11空挺団。一方、第一騎兵師団は9/2に横浜港から上陸した。翌日、相模原に移動、駐屯した。日本陸軍の敷地を利用したのだ。そして、東京進軍。9/8に相模原から八王子を通り、府中、調布を進軍、都内に入った。第1騎兵師団のweb siteの歴史に書いてあった;

9月8日の08:00に、第1騎兵師団司令長官ウィリアム C.チェイス少将が率いる歴史をつくることになるマッカーサー元帥護衛軍は、東京を目的地として相模原を出発しました。 戦場での日本兵の不屈の行動を経験してきた騎兵師団は、「野蛮な外国人」が日本の神聖な土壌を歩くことを日本兵が許すことはほとんど考えられませんでした。 しかしながら実際には、日本人は最大限の能力を発揮するために協力する意欲を示しました。

東京への軍団は、第1騎兵団のすべての部隊から百選錬磨の兵士を募りました。これまでの転戦先の状況を知った者が各部隊の代表となるようにしたものです。 八王子、府中、調布を通り抜け、第1騎兵師団は東京の入り口で一時停止しました。 チェイス将軍はその線を越えて歩き、それによってアメリカ陸軍を正式に東京に置き、「一番乗りのチーム」の記録に新たな「一番乗り」を加えた。 オタワ郡、オクラホマ州フェアランドのポール・デイビス上等兵は、将軍に従った第12騎兵連隊「D」部隊のメンバーであり、東京に正式に入った最初の兵士であるという栄誉を受けました。 これにより、ポール・デイビス上等兵は故郷の対外戦争退役軍人から、最初に東京に足を踏み入れた兵士に提供される1,000ドルの賞金を獲得しました。googleの日本語訳を ikagenkiが改変)

■ このポール・デイビス上等兵の東京への第1歩はどこなのか?

 米軍は東京入城を儀式のように行い、記録している。東京の境界があるという前提で、その境を越えることを重要なこととしている。でも、そのポール・デイビス上等兵が第1歩を印したのはどこなのだろうか?図1で写っている場所らしい。 条件として八王子、府中、調布を通り抜け、たというのがある。調布から都心へ向かう途中の境界はどこななのか? 一方、第1騎兵師団のweb siteの歴史には下記画像が掲載されている;


図3 米陸軍第1騎兵師団のweb siteより。東京入城の説明にある画像

これは、丸子橋らしい。軍用トラックの先の架橋の形状と戦前の丸子橋の写真(下)と比べるとわかる。


東京都のweb siteより

 横浜から東京へ進駐するとすれば、多摩川を渡らなければならず、丸子橋というのがありうるだろう。しかし、八王子、府中、調布を通り抜け、たのだから、丸子橋は関係ないはずだ。相模原→八王子→調布→都内と進軍した第一騎兵師団がどこで多摩川を渡ったかは不明。

■ マッカーサー元帥の東京入城

 九月八日朝、マッカーサーと幕僚らはホテル・ニューグラントを出発し、一時間後に東京・虎ノ門のアメリカ大使館に入った。そしてその庭で米軍の進駐式を行い、大使館の屋上には星条旗が翻った。

上のホテル・ニューグラントとは、今でもある、横浜の港に面したホテル。厚木飛行場に降り立ったマッカーサーはここに滞在していた。歴史はこの横浜のホテルから1時間後には東京、虎ノ門のアメリカ大使館に到着していると云っている。1時間ということは八王子経由とは考えらない。直線経路の川崎を通る道でいったのだろう。その時の映像が下YouTubeにあるが、軍用自動車ではなく、黒塗りの車だ。

GENERAL MACARTHUR FIRST DAY IN TOKYO SEPTEMBER 1945 JAPAN 1945 Flag Ceremony 42874

第1騎兵師団の歴史を見ても、確かに、朝に東京に入ったとある。しかし、星条旗掲揚の儀式は夕方とある。

同じ朝、マッカーサー将軍は、第2飛行隊、第7騎兵隊、第302偵察部隊、連隊機を運ぶ軍楽隊に護衛されて、正式に東京に入りました。 公式の「解放の旗挙式」は17:00に行われました。 旗は、真珠湾の日にワシントンで国会議事堂に掲げられていたもので、降伏文書に署名されている間に戦艦ミズーリにも掲げられていたものでした。 解放の旗はまた、イタリアとローマとの敵対関係の終結時に、イタリアのローマに掲げられた最初のアメリカの旗でもありました。googleの日本語訳を ikagenkiが改変、強調、おいら)

なお、掲揚された星条旗は翩翻としなかったと史実は示す。

 
公式の「解放の旗挙式」は17:00に行われました

マッカーサーの東京入りを護衛した第七騎兵隊は、インディアン戦争の頃からの部隊。インディアン戦争は、断続的に継続し、やっと終わったのが、1924年。そして、1945年の東京入城。インディアン戦争終結からまだ20年しかたっていないのだ。

■ なぜ、八王子経由だったのか?

さらに不明なのが、8:00に相模原を出発したチェイス少将率いる第1騎兵師団との連携だ。9:00に横浜を出発したマッカーサーとどちらが先に都内に入ったのか? わからない。

推測した。もし、川崎経由の海岸側で東京に入ると、東京の後背地である八王子方面の日本軍が都心に攻め入ってくる可能性があるという事例を米軍は想定したのだろう。後背地からの攻撃の危惧がないように、まずは大部隊を八王子経由で都内に進軍させたのではないか?

そして、マッカーサー軍は川崎経由で都内に入った。

■ 実は9/4に立川、9/5には偵察隊が都内に入っていた

 第12騎兵隊は、立川付近の5つの飛行場を占領する任務を割り当てられ、9月4日の夕方までに完成しました。

9月5日、兵士と装備を運ぶ車両の長い列が、陸軍通信学校のある相模原地区にある割り当てられた露営場所に移動しました。 正午、第1騎兵師団の参謀長チャールズA.シェルドン大佐が率いる偵察隊が東京に到着した。 この軍団は、強大な日本帝国の首都へのアメリカ人職員の最初の公式移動でした。 偵察は無事でした。 その使命は、都市自体の中に師団の露営地を見つけることでした。 (googleの日本語訳を ikagenkiが改変)

つまり、9/8の前に都内へ米軍が入っている。立川の陸軍飛行場は9/4には占領された。9/8の八王子経由のチェイス少将が率いる東京入城軍団は事前に露払いがなされていたのだ。

9/8以降、チェイス少将が率いた東京入城軍団は、代々木練兵場に入り、駐屯する。



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