いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第431週

2023年02月18日 19時23分12秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第431週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の生まれた場所と死んだ場所が近い人

生まれた時のことを覚えている三島由紀夫は、東京都新宿区四谷四丁目22番で誕生し、東京都新宿区市谷本村町5-1 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で死んだ(wiki)。その距離は1kmである。

■ 今週の同窓生;四谷第三小学校

 

三島由紀夫と宮澤喜一が四谷第三小学校の「同窓生」と知る。いや、いや、そもそも三島は学習院に通っていたことは有名だろうと、つっこみがあるだろう。そして、宮沢は、今wikiでみたら、予想違わず?、東京高師附属小学校(現・筑波大学附属小学校)だった。三島由紀夫と宮澤喜一が、約1年間、すなわち三島がそこにいた期間(昭和23年/1948年)、四谷第三小学校の「同窓生」であったという意味は、敗戦後、占領軍に接収され立ち退きを命じられた大蔵省が仮庁舎としていたのが、同校なのだ。三島が大蔵省を辞めた約半年後にドッジ公使が来日(1949年2月)。ドッジ・ライン:自由市場化。ドッジー池田蔵相の時代。宮沢は1949年3月に大臣秘書官となる。なお、三島は初出勤の場所も生誕地から近いと知る。狭い世界だ。

■ 今週返した本

 宮澤喜一、『戦後政治の証言』

「戦後レジームからの脱却」という惹句がある。なぜ、”レジーム”とフランス語を使うのかわからない。戦後体制といわないのか?それはさておき、戦後体制=戦後レジームとは、①占領征服軍事政権が制定した憲法と占領末期に朝鮮戦争で列島の軍事的空白を埋めるための②「警察予備隊」設置(占領軍命令)[のち自衛隊]、と占領終了のための講和条約締結の条件としての米軍駐兵権付与・治安出動(日本政治への軍事介入OK)権付与の③安保条約3点からなる、日本の保護国化体制のことである。つまり、講和後も占領米軍と朝鮮国連軍が列島を軍事的に使用できる体制、米軍天国体制である。これらの、戦後体制の要である、講和・9条・安保・自衛隊(米衛隊)の安保・自衛隊の創設、講和に関わっていたのが、宮沢喜一。戦後レジームの創始者、守護神である。宮沢喜一って、マッカーサー元帥(マ元)に会ったことがあると知る。1950年5月に池田蔵相が、占領下日本から訪米する時、事前にマ元に会った。その時、秘書官として通訳をした。マ元はほとんど日本人に会わなかったと伝えられている。

 「戦後レジームからの脱却」を叫んだとされる安倍政権の後の現在、岸田政権は、宮沢政権後初めての宏池会(元来、9条・安保・自衛隊体制の守護者、護憲派)政権。今では、岸田首相は改憲をいうが、実現しそうもない。ただ、戦後レジームのまま、米国の防衛力増強要求に答えている。つまり、これは講和条約後、池田ーロバートソン会談で、陸上自衛隊10個師団など日本の自衛隊の組織、規模を米国・米軍が企画し、日本に指示した構図と変わらない。まさに、戦後レジームである。

宮澤喜一、『戦後政治の証言』: 1991年6月刊行。初出、月刊誌『THIS IS読売』1990年10月号から1991年3月号に連載。つまり、宮沢政権(1991年(平成3年)11月5日から1992年(平成4年)12月12日 wikipedia)の直前。

1991年5月、「「真珠湾」から五十年後のいま、日米両国はお互いにとって最も大切な関係だといわれながら、多くのアメリカ人が日本はソ連よりも恐ろしいと思っている。」と本書の冒頭のはじめににある時代。

宮澤喜一、『戦後政治の証言』から抜き書きメモ;

大蔵官僚(今の財務官僚、通称Z)の政治家操縦;

 当時、日本の官僚がもっとも頭を使ったのは、どうやって占領軍という絶対権力者を自分の都合のよい方へ引っ張っていくかであった。権力者同士を内部で対立させ、その間隙に乗じるというディバイデッド・アンド・ルールの逆の手は古典的なやり方ではあるが、それなりの効果があることもあった。
 そこで私は、ドッジとニューディーラーたちとの離間にすこし精を出してみれば面白いのではないかと考えたのである。
 p16

昭和25年のアメリカ;

昭和二十五年四月二十五日、池田蔵相は占領下の日本の閣僚として初めてアメリカへ旅立った。(中略)(ワシントンでの二人で7ドルという質素なホテルで)羽田を発つとき、知り合いの料理屋のおかみがくれた福神漬と四号びんを私が持参しており、洗面器にお湯を張ってお燗をつけた。アメリカは蛇口をひねればお湯が出る国なんだと思って、あらためて感心したものである。p27-8

占領下の「辛さ」。でも日本「永久占領」を実現したのは宮沢が一兵卒として実現した吉田ドクトリンだけど。

 総司令部のなんとか少将などに頭を下げどおしで、息のつまりそうな占領下の日本からきてみると、まるで自由なものである。渡米は、私にとっては二度目であった。大学に入った昭和十四年の夏休みに、南カリフォルニア大学で開かれた第六回日米学生会議に出席した。(中略)印象に残ったのは、住宅が立派なこと。日本で誇れる建物といえば、有楽町の日本劇場ぐらいなものだから、国力がちがう。こんなに自由で力のある国と戦争をしたら負けるな、と思った記憶がある。(中略)
 その後、戦時中から戦後にかけて暗い国内に閉じ込まれたあと、十一年ぶりでアメリカの自由で開放的な空気を吸ったうまさは、今日も忘れられない。p29-30

占領下にあることがいかに不愉快なものか、いまの人にはわかってもらえないかもしれない。p45

アイケルバーガーに会った時の言葉(なおこの発言は、朝鮮戦争勃発前である)

「アメリカが日本に対し、あまりに懲罰的な政策をやってきたのは根本的に誤っていた。こんなにソ連がのさばるなら、ヨーロッパはドイツにやってしまい、アジアは全部日本に頼んだ方がどれだけよかったかもしれない。もう一度フィリピンのバターンから戦争をやり直させてくれたら、こんなへまな真似はしない」とまでいった。p33

宮澤喜一の「八月革命説」 

 さきに述べたように、前年から解除がはじまっていた政界の公職追放者は、独立後いっせいに復帰をめざして活動を開始した。ただ、この人たちが休眠を強いられていた敗戦から独立までの七年間の家うちに、時代はひどく変わっていた。この間の変革は、歴史が自然に流れていたならば百年をもってしてもなし得ないほどのものであった。さらに言えば、単なる年月の経過では起こりえないことが起こった。私などには「革命」があったと思われるのである。

 革命以前の人たちが革命後の社会をもう一度しようとする一方で、革命後の勢力である吉田首相とその一党の人たちは、サンフランシスコ講和条約を境として明らかに世間からあきられはじめていた。吉田政治の秘密性、側近性といったことに加えて、アメリカとの緊密な連絡のもとに行われてきた防衛体制の漸進的な確立、デフレ財政と呼ばれた均衡財政政策もまた世論の不満を買いつつあった。鳩山一郎氏を頂点とする旧勢力に好機が到来しようとしたのである。

 鳩山氏らは、第一に友愛精神をとなえて吉田式の秘密、側近政治を批判した。第二に、吉田氏の秘密のいわゆる対米一辺倒に対してソ連、中国との国交調整を主張した。 第三には。 従来の「なしくずし」的防衛は一方では独立精神をよわめ、他方で憲法にも抵触するおそれがあり、正々堂々と再軍備の旗をかかげるべきだと主張した。そして第四に、財政はすべからく積極的、建設的でなければならぬと説いた。 p72

寛容と忍耐;大平正芳と宮澤喜一

 私たちのほうは、新内閣のキャッチフレーズをどうしようかと相談していた。
 安保で荒れた世相を考えると「やはり大事なのが忍耐だな」といったのは大平氏であった。それにもう一つ何か加えようと言っているとき、私は「寛容」という言葉を思いついた。私は学生の頃 J・S・ ミルの本を熱心に読んだことがあった。ミルの『自由論』のなかには「tolerance-寛容」がなんども使われていた。それを思い出したのである。「寛容と忍耐」を掲げた池田低姿勢内閣はこうして誕生した。p115-6

このふたりはライバルだったとのこと。

大平正芳が総理に就任した頃、宮澤は酔った勢いで「大平君が総理・総裁とは滑稽だ」と言い放ち、これを伝え聞いた大平は宮澤と口を利かなくなった。2人は元同僚で池田勇人の秘書官時代からの仲だったが、宮澤は池田の盟友で東大の先輩である前尾繁三郎や黒金泰美に近く、大平が前尾が継承した宏池会を実力で奪い取った経緯があることから、微妙な関係にあった。wiki

池田勇人の「米国真理教」

キューバ危機で米国がキューバの海上封鎖をして、ミサイルを運び込む可能性がある船舶の海上臨検を行うことを決め、日本政府の了解をライシャワー大使が求めてきた時の話;
 (前略)事態がどのようなものであれ、公海で武力を背景に他国の船舶を臨検することは、平時の国際法では認められていないことである。(中略)ある外務省幹部が、国際条約と慣例からいえば日本はアメリカの行動に制約されなくてもよいのではないか、と発言した。しばらく無言が続き、私が「自分もそう思う」といったあとは重苦しい沈黙が支配した。
 池田首相は苦しそうに天井をみあげていた。随分たってから口をひらき、国際条約は慣例は大切だが、いまはおそらくそれが通用しない状況ではないかと思う、日本政府としてはケネディ大統領の決定を了承するとライシャワー大使に伝えてほしいと指示した 。p123-4

宮澤喜一の「米国真理教」:ベトナム戦争を容認

1975年外務大臣として米国のキッシンジャー国務長に会った時に宮沢は云った;
 私たちは、その時が初対面であった。そこで、私はまず「自分はアメリカの批判者、評論家として訪ねたのではない」と前置きして、日本人はアメリカのベトナムにおける努力が善意にもとづくものであったと信じていること、しかしアメリカの追求する自由、民主主義という政治的理想も、時と場合によっては不幸にして普遍性を失うのではないかということ、ただし自助の決意を持つ国々ではアメリカとの集団安保体制にたいする信憑性は緩い緩いでいないこと、日本はアメリカのアジア政策立て直しの過程で積極的に協力する用意があることーなどを率直につたえた。p193-4

知恵遅れ、宮澤喜一。三島由紀夫に遅れ20年、何か気づき始める;

 欧米の諸国には自由とか革命、独立のために血を流してきた歴史がある。そのような欧米人からみると、戦後の日本人の生き方は、平和を唯一最高の価値として、たとえ自由や独立のためですら、戦うことは悪だとみなしてきたと映るのである。
 (どんな目にあっても戦うことを拒否する考えに)たいして、「どんな場合にも平和は至上の価値なのか」という問題を提起したい、と私が思ったことはこれまで何度もあった。

 平和を追求することには、だれも異論はない。ただ、国際社会の公正をみだす行為にたいして、自分の損にならないかぎり知らぬ顔で座視してはばからないということには、国際社会の一員としてどこまでそれが許されるかという問題があろう。

国連常設軍を夢想。 憲法九条が禁止する「国権の発動たる戦争」には該当しない。 「国権」を越える。よほど、日本軍の創設を忌避したらしい。



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