いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

近くて"遠い";井伊直弼と吉田松陰のお墓の間には、深くて暗い暗渠がある

2020年12月07日 05時03分43秒 | 日本事情

6年前(2014年)の愚記事に、首と胴体を切断されて殺された二人は、案外、お互い近くに埋まっていた; 井伊直弼と吉田松陰 というのがある。要は、幕末の天敵同士であった二人のお墓が近くにあることについて書いた。

 
  井伊直弼の墓(豪徳寺)      吉田松陰の墓(松陰神社)      

なお、この2014年には、徳富蘆花がこの点を指摘していることは知らなかった。

僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互に倶不戴天の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟今日の日本を造り出さんがために、反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ。彼らは各々その位置に立ち自信に立って、するだけの事を存分にして土に入り、余沢を明治の今日に享くる百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている。徳富蘆花、謀反論


井伊直弼と吉田松陰のお墓の距離は、840メートル。


豪徳寺(卍)と松陰神社(⛩)  地図、  地形図

豪徳寺(卍)と松陰神社(⛩)の間には「谷」がある。豪徳寺と松陰神社は違う「」に載っている。両者は谷を挟んだ対岸にあることになる。谷は川によってつくられた。この豪徳寺と松陰神社を遮る谷をつくった川は烏山川である。ただし、今は暗渠となっている。

烏山川(からすやまがわ)は、東京都世田谷区内をかつて流れていた二級河川で、目黒川を形成する支流のひとつ。 1970年代以降、ほぼ全面的に暗渠化され、ほとんどが下水道(烏山幹線)へ転用された。近年は暗渠部の緑道化が進められ、「烏山川緑道」と呼ばれている。wiki

「井伊直弼と吉田松陰のお墓の間には、深くて暗い暗渠がある」の深くて暗い暗渠があるはヨタである、暗渠があるから、近くて"遠い"のではない。

墓ができた幕末ー明治時代は烏山川がながれ、往来を制限してきたに違いない。今でも、そのなごりで、昔の川、現在は暗渠の上の緑道が律速となり、両岸をつなぐ道は必ずしも太いわけではない。もちろん道はある。でも、細い。なので、わかりづらい。



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