いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

反米「保守」の原点:石原慎太郎と西部邁の共通体験;占領軍米兵が家に入り込んできた

2021年04月18日 19時22分03秒 | 日本事情


2014年7月10日 プライムニュース

西部邁は自伝、あるいは思い出話をいくつも書いている。敗戦直後、村に進駐軍が来たことは、1979年から書いている(愚記事;ギブミーチョコレートにおけるパンパンの役割、あるいは、媒介者)。そして、晩年の最期の自伝、『ファシシタたらんとした者』にも書いてある。それまで37年間繰り返して書いてきた「父親が長い錐を研いで米兵が押し入ってきたらせめて一兵なりとも刺すといっていた」話も出てくる。しかし、初めての話も出て来た。

 近所の基地のアメリカ軍人が村のなかに入ってくるということはめったになかった。一度だけ、雲つく大男が二人、「サケ、サケ」とねだりにきたことがあったものの、その[西部の]母は(父が農協連合会の倉庫から持ってきた)工業用メチルアルコールを差し出し、相手はそれを舐めて、さすがに顔を顰めて帰っていった。

「敗北」を目の当たりにした少年の「鬱勃たる憂鬱」、『ファシシタたらんとした者』、西部邁 (2016年)より引用。

同じ話を何度も書くことが特徴の西部が、この話を今まで黙っていたのか、逆に興味深い。(2022/11/26 訂正:この記事の1979年の引用文に「時おり酒をねだり身振りで台所口にぬっと現れる雲つく大男」と書いてある。しかも、「時おり」と1度だけではなかったことが書いてある。

自宅に米兵が押し入ってきた話を別途見つけた。石原慎太郎だ;

 また、ある夜に私の家へアメリカ兵がやってきて裏口の戸をドンドン叩き「開けろ、開けろ」と叫んだことがあった。他所でそうやって押し入られて被害にあった話も聞いていたので、とうとうわが家にまで及んだかと身を竦(すく)めていると、親父が敢然と「NO」「NO」と叫び、「ジス イズ プライベイトハウス、プライベイトハウス」と叫んで結局彼らは退散していきました。あの頃上陸したアメリカ兵が各地でどんなこと行為をしていたかは、江藤さんの指摘された徹底した検閲でほとんど明るみに出ていないが、敗れた側の当然だろうが、あちこちであったことです。

石原慎太郎、江藤淳、『断固「NO」と言える日本』(1991年)

■ 西部邁と石原慎太郎の対談というのを見たことがない。本になっていないと思う。少なくとも、西部の本にはないと思う。さらには、西部邁と石原慎太郎の関係を知らない。西部邁は人の好き嫌いが激しそうなので、交遊はないのではないかと思った。ちなみに、西部邁は1984年に江藤淳と対談し、交遊をもとうしたのか江藤の別荘に行っている。が、その後交際は途絶えた(そのいきさつについては、西部は書いている)。さらには、西部邁は1991年頃か、石原を技術主義だとして批判していたと、おいらは、記憶している。だから、西部邁と石原慎太郎の関係は良くないのではと漠然と思っていた。

それで、西部邁と石原慎太郎の関係をググると、2014年7月10日にテレビに一緒に出演していた、とわかる。

動画は、ブログ。「今知るべきニッポンの表と裏 | 動画でわかる日本の真実」様で見られる。

▼ 反米「保守」の原点と書いたが、石原は家に米兵が押し入ってきた以外に、戦時中は戦闘機の射撃で殺されそうになったりしている。なお、石原は「何もその体験を怨念として記憶などしていない。つまり実戦の中でようやく外国の異文化に肌で接触したということです」と云っている(上記本)。

■ コンタクト・ゾーン

こじつけだが、西部と石原(慎太郎は、社会心理学ゼミの所属だった)には「社会学」という共通項がある。

さて、社会学に「コンタクト・ゾーン」なる概念がある;

コンタクトゾーン(contact zone)とは、文学/社会言語学研究者であるメアリー・ルイーズ・プラット(Mary Louise Pratt, 1948- )になる専門用語で、異種の言語使用者が接触するチャンス――商業や交易の他に植民地化、軍事的占領や戦争なども含まれる――が生起する2つの言語や文化 が交わっていく空間概念のことをさす。コンタクト・ゾーン  Contact Zone  池田光穂

おいらは、占領期のことを調べていて出くわした。Goole[コンタクト・ゾーン 進駐軍]で、いろいろ出てくる。もっとも、パンパンが主流で、「占領軍米兵が家に上がり込んできた」話はみあたらない。