いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

京都・修学院離宮;参観申込とその実際

2021年04月02日 18時07分59秒 | 国内出張・旅行

 
修学院離宮 鳥瞰画像    GoogleMap    。 角度を変えて観てみる↓


GoogleMap

■ 修学院離宮概略

京都市の北東部に修学院離宮がある。約55万平米の敷地に3つの離宮がある。敷地の中には田園があり、現在でも耕作している。江戸時代初期の1655-1659年に後水尾上皇により造園、完成される。

<地理・地形>

修学院離宮は京都御所からみて北東の京都の盆地の縁にある。直線距離で4.7 km。修学院離宮は上皇の離宮であるので、御所から通う。その離宮は盆の皿と壁である山との遷移域。山地からの土砂と音羽川がつくった修学院扇状地にある。冒頭の鳥瞰画像は扇状地の斜面をみている。



京都の地形と御所、修学院離宮の位置。御所は盆地の平地部(緩扇状地)にあり、修学院離宮は山地との境界の急勾配扇状地にある。後水尾上皇は離宮に日帰りで通っていた。

■ 事前申し込み

現在、宮内庁の管轄。一般公開しているが、参観のためには、事前の申請と許可が必要。でも、簡単である。事前申請は往復はがきとネットと窓口の3方法(他に当日申込があり、計4方法)。

ネットでの申請はこのweb site(参観ご希望の方へ)からできる。参観可能な日時、時間帯がわかる。1日5つの時間が設定されている(9:00, 10:00, 11:00, 13:30, 15:00)。各参観時間帯は、満員になると締め切る。参観は1時間10分ほど、参観者数は通常(コロナ禍以前)は35名であったが、今は10名。「申込には,参観を希望される方全員の自宅住所(必ず番地まで),氏名,年齢及び性別を入力」する必要がある。申請すると、当落の結果は翌日以降となる。知らせたメールアドレスに返信してくる。この時、整理番号が割り振られる。当日の受付ではこの番号と身分証が必要。当日は、身分証明書(運転免許証)を提示した。

申請は見学日の3ヶ月前からやっているようである。今日(2021/4/2)の時点では、7月分まで募集している(web site)。

料金はかからない。

■ 修学院離宮参観の実際

この日、9時からの参観。朝早い。申請の時、この時間帯しか残っていなかった。

▼ 最寄り鉄道駅から離宮まで

京都市中心部からは、まず出町柳へ行く。そこから叡山電鉄叡山本線に乗り修学院駅まで行き、降りる。その修学院駅から修学院離宮までは地図上の直線距離で約1km。この日は歩いて25分ほどであった。宮内庁案内には20分とある。


叡電修学院駅


音羽川(おとわがわ)。かつて修学院扇状地を形成した。

修学院離宮正門。 

▼ 入門まで


8:45に入れてくれた。

離宮に入って、振り返る。後続の人が体温測定をしている。この門を入ると右手に受付の窓口をもつ建物があり、係の人が対応してくれる。予約番号を云って、身分証明書を提示。おいらは自動車運転免許証を使った。なお、<荊の簪を差した御方様>と2名同時に申し込んで、登録された。でも、身分証明書の提示はおいらひとりで済んだ。

参観者の休憩用建物がある。中には売店があり、おみやげを売っている。参観者用のロッカーもある。皇宮警察の人員募集のポスターが貼ってある。

見学出発

▼ 正門 ⇒ 下離宮

時間になると、参観者は集められ、説明者(おそらく宮内庁の職員なのであろう)から注意を受ける。今はコロナ禍状況下だから、話さないでくださいとか、参観者同志で写真を撮ってもらうのを頼むことはお勧めしませんとか。最後に、今日は3キロ歩きます。参観者集団から離れること、先に帰ることは認められませんとのこと。

参観経路は、入口から出発、各離宮を下、中、上と順に廻る。扇状地の斜面を上がっていく。離宮は田園に中に浮いているようで、離宮の間は両側に並木をもった畔で結ばれている。後水尾上皇の時代から今まで離宮内は耕作されている。公地公民ですよ、公地公民。当時は、民に対し上皇がむき出しにならないように並木で覆いをしたのではないかと今おいらは推定した。(のち、明治になて、天皇行幸に際し松並木を植えたとあった)。現在この地は国有地=宮内庁の所有。そして、借りた農民が耕作しているとのこと、なお、宮内庁の説明員によると敗戦後の農地解放でこの農地は(当時の実耕作者に)払い下げられたとのこと。つまり、各私人の私有財産となったのだ。そして、その説明員殿が語るには、「この戦後の払下げ後において私有地に建物でもできたら、今のこの風景はなかったであろう」とのこと。現実は、1964年(昭和39年)に国が買い戻して離宮に編入された。そして、国・皇室に土地を返した農民が現在は借りて耕作しているのだ。つまり、彼らは公地を耕す公民なのだ。でも、この日の見学では、彼らの姿を見なかった。



下離宮の門。 なんとこの日、普請中で参観できなかった。絵で我慢↓

▼ 下離宮 ⇒ 中離宮

離宮間の田園の中を行く。定まった道が整備されている。直線の並樹路。左右は田園が広がる。

扇状地の斜面を緩やかな傾斜だが、のぼっていく。 街が見えた。

▼ 中離宮


中離宮の門。 中離宮は修学院離宮造営前からお寺としてあった。というか、そのお寺があったので、後水尾上皇が離宮としてこの地を選んだ。そのお寺とは後水尾上皇の第一皇女梅宮が建てた円照寺。離宮造園に伴い、円照寺は大和、八嶋に移転。その後、後水尾上皇の第八皇女、光子(てるこ)内親王が移り住み、御茶屋を造った。後水尾上皇崩御後、光子(てるこ)は落飾得度し、寺とした。林丘寺(りんきゅうじ)。この林丘寺は今でもこの地にあり、半分が(現在宮内庁管理の)離宮となり、半分はこの敷地の中に存続している。



客殿(左)と楽只軒。

祇園祭の鉾の絵(狩野敦信)。

 

▼ 中離宮 ⇒ 上離宮;田園の中を走る畔・並木の道を辿り移動


畔・並木の道を行く。

▼ 上離宮


上離宮の門。

上離宮は扇状地斜面の山地への縁にあり、高度も高くなっている。なので見晴らしがよいので御茶屋を建て、上離宮としたのだ。門から入り、隣雲亭、楓橋、池の中の小島=窮邃(きゅうすい)亭、土橋、池の縁の直線路、経路は環状なので、上離宮正門に戻る。



階段を登る。上離宮は高い位置にある。

隣雲亭

150メートルの高地。ここからの眺望が修学院離宮の華。


池のほとり(西浜)で作業する人たち。

離宮全体の地形と航空写真。この眺望のよい上離宮の隣雲亭は図の黒矢印の地点。小高い丘の上にあることがわかる。この丘は扇状地の堆積地域と山地の境界にあり、扇状地堆積物に埋もれた山地の残丘に違いない。上離宮の西側(図中の左)は傾斜地が始まり、離宮直下には池がある。浴龍池。この池は人造池で、扇状地を等高線に沿って段々にした最上段部。川を堰き止めて池とした。堰き止める前の川が流れていた谷が確認できる(赤矢印)。

振りかえって隣雲亭をみる。隣雲亭はこの小高い場所にある。


池の中の島々の間の橋:千歳橋。

<この離宮に来た3人の天皇>

この千歳橋を後水尾上皇は見なかった。当時なかったからだ。この千歳橋は江戸後期に作られた。当日の参観で解説者から光格天皇の名を聞いた。どうやら、光格上皇もこの離宮に来たことがあるらしい。そして、その光格上皇のために建造したらしい。wikipeiaにはそのことは触れていない;

千歳橋 - 中島と万松塢の間に架かる。特色ある外観をもった屋形橋であるが、当初から離宮にあったものではない。切石積みの橋台に一枚石の橋板を渡し、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架けたもので、宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰が立つ。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものである。

当日の解説者の説明でこの離宮には3人の天皇が来たと云っていた。後水尾、霊元、そして光格。あー、なるほどね、とおいらは思った。光格天皇とは;

明治維新の時の天皇は明治天皇であったが、その王政復古の偉業達成は、明治天皇に先立つ光格、仁孝、孝明の三代の天皇の朝廷の権威の復興の成果であったとされる。なにしろ、光格天皇以前の天皇は、62代の村上天皇を最後として、「天皇」ではなかった。愚記事

そんな幕末に朝廷再興を願う光格天皇が上皇時代にこの修学院離宮に来たのだ。なお、光格天皇は9歳の時、幼い女の子のみを残して22歳で崩御した後桃園帝のあと皇位についた。世襲親王家の閑院宮、つまり傍系から皇位を継承した。そして、この閑院宮は、後水尾天皇から発している。<この離宮に来た3人の天皇>=後水尾、霊元、光格の関係を確認する。光格天皇の祖父は直仁親王であり閑院宮家の初代。直仁親王の父は東山天皇、祖父は霊元天皇。そして、その霊元天皇は後水尾天皇である。つまり光格天皇にとって後水尾天皇は生物としては5代前の先祖である。ただし、天皇の歴代数では、(なんと)11代前となる。後水尾天皇ののち光格天皇まで、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、後桃園の歴代天皇がいた。

 つまり、11代を隔て、光格は「傍流出身ゆえより本来的であろうと努める」一策として後水尾を顕彰する政治的示唆行動として修学院離宮を訪れたのではないかと、おいらは、推定している。

楓橋を渡って池の中の島に渡る。

* ⇒ 窮邃(きゅうすい)亭

まぢかに見えた千歳橋。


雨戸の鴨居の上に「銘板」が掲げてある。 窮=きわめる、邃=おくぶかく、と今ググッて知った。


宮内庁のweb site より)


窮邃亭の全景(宮内庁のweb site より)

<上皇の離宮遊びは日帰り>

解説員の話で興味深かったこと。上皇は京都御所からここに来るが、日帰りであったとのこと。日帰りで来て、下離宮から上離宮へ登り降りして御所まで変えるのは強行軍ではないだろうか?叡電もないし。これは恐らく当時上皇の外泊禁止という規則が幕府から出ていたのであろう。上皇が外泊可能であり、この離宮に滞在する慣行ができると、草莽微賤の尊皇志士が集まってしまう可能性もあるからだ。もし、上皇に反幕感情があれば、反幕府運動の発火となりかねない。

* ⇒ 島を出る、 西浜


舟着。


池と西浜。


西浜から池を望む。

上離宮の門を出る。

▼ 上離宮 ⇒ 表総門


大刈込み。 離宮は扇状地斜面にある。等高線沿いに段々に整地してある。先ほどの浴龍池がこの大刈込みで「せき止め」られている。

下離宮に降りてきた

▼ 下離宮 ⇒ 参観者出入口/参観者休所

 

参観者出入口/表総門の広場に戻ってきました。ここで、解散です。 お疲れ様でした。解説者の人、宮内庁の職員の方々、ありがとう。


離宮(参観者出入口)を出たところ。

■ まとめ

おいらは、自然豊かに見えて実は相当固定資本投資している生産力地域としての美しい田園風景に感動しました。この離宮は持続可能性が高く、千代に八千代に存続できそうです。

宮内庁 web site