保守民族派としてこだわりたくなるのは、日本文化とは何であるからという大問題である。西田幾多郎が『日本文化の問題』で述べたことを、その高弟であった高坂正顕が『西田幾多郎と和辻哲郎』において解説している。「西田先生が日本文化の根底に考えた形而上学的なるものはかかる形での『無』であり、天皇はかかる『無』の象徴であったのである」。「無」であることは自分を持たないことである。日本が世界の中心であるかのような振舞いを慎まなければならないのである▼日本の中心の天皇が「無」であることが日本の国柄を示しているのである。「最も戒めるべきは、日本を主体化することでなければならないと考える。それは皇道の覇道化に過ぎない、それは皇道を帝国主義化することに外ならない」と主張したのだった。「日本精神の真髄は、物に於て、ことに於て一となると云ふことでなければならない。元来そこには我も人もなかった所に於て一となると云ふことである。それが矛盾的自己同一として皇室中心と云ふこと」なのである▼他国や他の民族を否定するのではなく、こちらが「無」になることで、かえって日本の王道の精神が相手にも伝わるのである。他国が帝国主義的な侵略をしてくるならば、それには毅然として立ち向かわなければならないが、まずは相手を認めるところから出発しなければならないのである。そうでなければこちらの思いが通じるわけはないからだ。最近は日本人の間で中共や韓国への嫌悪感が広がっている。これまでの経過からしてあたりまえのことである。だからといって日本文化の根底にある「無」の精神を忘れてはならないのである。
←応援のクリックをお願いいたします。