誰が何を信仰しようと自由ではないか。それについて答弁を求めるのは、信教の自由に対する侵害ではないか。立憲民主党の打越さく良氏が今日、参議院予算委員会で山際担当相の信仰を質す場面があった。前代未聞の暴挙である。何を聞いても好いと思っているのだろうか。まさしく、左翼全体主義による踏み絵であり、断じて認められない。それに加担するマスコミも異常である。
ハンナ・アレントも書いているように、全体主義は「多くの人間を一人の人間にしようとするテロルの鉄のたが」(『全体主義の起源1・2・3』大久保和郎、大島通義、大島かおり訳)をはめようとする。つまり、政治的な領域にとどまらずに、私的な領域にまでテロルによって支配しようとするのだ。何をしたかではなく、何を考えているかまで監視しようとするのだ。
そのお先棒を担ぐような政党や政治家を、私たちは信用することができるだろうか。自分も接点があった辻元清美氏が、こともあろうに、旧統一教会のことで、岸田首相を罵倒するというのも、ダブルスタンダード過ぎて、不快感を覚えてならなかった。
残念なことに岸田首相も、そうした野党に迎合するかのような発言をしている。解散を求めるかどうかを考えるにあたって、昨日までは、刑法に触れるかどうかを問題にしていたのに、今日あたりは、民法上のことでも、それに該当するとか言い出した。勝手に法律の解釈を変更して、本当にいいのだろうか。
旧統一教会に関して問題にされるべきは、外国に不正な送金をしていないかどうかであって、信仰についてではない。政治と宗教ということになれば、多くの宗教団体が信者と争っているはずだ。それに国がいちいち介入するつもりなのだろうか。
国家権力はそこまで口出しをすべきではない。マスコミによるネガティブキャンペーンによって煽られた世論が、必ずしも正しいとは限らないからだ。それこそ立憲主義にもとづいて判断されるべきなのである。