草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

信教の自由を認めない打越さく良氏の質問は言語道断だ

2022年10月19日 | 政局
 誰が何を信仰しようと自由ではないか。それについて答弁を求めるのは、信教の自由に対する侵害ではないか。立憲民主党の打越さく良氏が今日、参議院予算委員会で山際担当相の信仰を質す場面があった。前代未聞の暴挙である。何を聞いても好いと思っているのだろうか。まさしく、左翼全体主義による踏み絵であり、断じて認められない。それに加担するマスコミも異常である。
 ハンナ・アレントも書いているように、全体主義は「多くの人間を一人の人間にしようとするテロルの鉄のたが」(『全体主義の起源1・2・3』大久保和郎、大島通義、大島かおり訳)をはめようとする。つまり、政治的な領域にとどまらずに、私的な領域にまでテロルによって支配しようとするのだ。何をしたかではなく、何を考えているかまで監視しようとするのだ。
 そのお先棒を担ぐような政党や政治家を、私たちは信用することができるだろうか。自分も接点があった辻元清美氏が、こともあろうに、旧統一教会のことで、岸田首相を罵倒するというのも、ダブルスタンダード過ぎて、不快感を覚えてならなかった。
 残念なことに岸田首相も、そうした野党に迎合するかのような発言をしている。解散を求めるかどうかを考えるにあたって、昨日までは、刑法に触れるかどうかを問題にしていたのに、今日あたりは、民法上のことでも、それに該当するとか言い出した。勝手に法律の解釈を変更して、本当にいいのだろうか。
 旧統一教会に関して問題にされるべきは、外国に不正な送金をしていないかどうかであって、信仰についてではない。政治と宗教ということになれば、多くの宗教団体が信者と争っているはずだ。それに国がいちいち介入するつもりなのだろうか。
 国家権力はそこまで口出しをすべきではない。マスコミによるネガティブキャンペーンによって煽られた世論が、必ずしも正しいとは限らないからだ。それこそ立憲主義にもとづいて判断されるべきなのである。
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玉川徹氏を降板できないテレビ朝日を嗤う

2022年10月19日 | マスコミ評
 公共の電波を使っていい加減なことを言っても許される。そんなことがあってよいのだろうか。玉川徹氏のフェイクに対して、ネット民からの批判は強いが、テレビ朝日はコメンテーターではなく、現場に出るということで、一件落着させたいようだ。これまで同様に、玉川氏は言いたいことを口にして、ネット民の笑いものになるのだろう。
 玉川氏を「文化人」と呼ぶのには抵抗があるが、上から目線の発言は、福田恆存が命名した「文化人」の部類に属する。民衆は心理的に動くから、論理的に考えることができる高学歴の自分が、愚昧な者たちに教えてやろうというのである。福田恆存にいわせれば、とんでもない見当違いの手合いである。
「さういう『文化人』が、私の眼には、無辜(むこ)の良民をうしろから袈裟(けさ)切りにして、溝河(どぶがわ)に蹴落としておき、『南無阿弥陀仏、成仏しろよ』と手を合わせる辻斬り侍のように見えてしかたがないのです。選挙民をたぶらかすインチキ政治家とどこがちがふのでせう。国民の一人一人に竹槍をもたせようとした狂信的軍閥政治どこがちがふのでせう」(平和論と民衆の心理・Ⅲ・二七)
 実際は無辜(むこ)の良民の方が賢いのである。安倍さんの国葬儀の一般献花の列に並んだ人の方が、はるかにまともなのである。一時的なアベガ―を代弁して、死者を貶めた玉川氏は、感情に流されただけではないだろうか。
 今のテレビは、事実の報道よりも、下手な「文化人」に成り下がって、偉そうなことを臆面もなく言いたがる。「ミヤネ屋」に出てくるコメンテーターもそうだが、正義は我にありという口ぶりである。これではテレビを見たくなるのも無理はない。斜陽産業の最後の悪足掻きなのである。
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