草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

抗議電話の音声をアップしテレビに流した大村秀章を嗤う!

2019年09月29日 | 憲法

「あいちトリエンナーレ」の件で抗議の電話をした人の音声が、本人の了解もなく「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」のユーチューブにアップされ、さらにその音声がTBSの「スーパーJチャンネル」で放送されたというのだから、まさしく言論弾圧に以外の何物でもない▼アップされた人がビックリしてツィッターで木村秀章愛知県知事に問いただしたらば、いけしゃしゃあと「電凸攻撃です。威力業務妨害です」の一言でブロックしたというのも、考えられないことだ。大村は他人の意見など聞く耳を持たぬのである▼大村は表現の自由とやらを強調しながら、その一方では批判することを許さないのであり、お得意のダブルスタンダードなのである。安倍政権がそんなことをしたら大騒ぎになるはずだ。マスコミも大村のこととなると腰が引ける。「慰安婦像」のことが問題になっており、民団や朝鮮総連の反発を恐れているのだろう▼昭和天皇が貶められたことをマスコミが伝えないために、大村がいい気になって居直るのである。国民統合の象徴としての天皇を誹謗することは、憲法1条違反である。多くの日本国民が激怒しており、電話で怒りを示したとしても、暴力行為をほのめかしたわけではなく、自由な言論の許容範囲である。大村はやることなすこと全てお笑いだ。大村がしでかしたことを追及して、批判されるいわれはないのである。

にほんブログ村 政治ブログへ

にほんブログ村

応援のクリックをお願いいたします


政治ランキング


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本国民の怒りを買った朝日... | トップ | 川柳を削除してまで韓国に気... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
朝鮮(韓国)の歴史の真実14 (嫌韓有理)
2019-09-29 08:02:45
 「世継ぎ問題などで興宣大院君と権力争いをしていた閔妃(第26代・高宗の妃)は、1873年、興宣大院君を追放し、大院君とその一派を失脚させた。そして自分の一族(閔氏)を高官に取り立て、政治の実権を握った。(中略)興宣大院君は隠居させられたが、閔妃を国家存続を脅かすものとして政局復帰、閔妃追放の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にもなった。両者の権力闘争は敵対者を暗殺するなど熾烈なものとなった。(中略)双方で暗殺が続いて国内が乱れた。」(Wiki)
 「大院君失脚以降、閔妃は西洋に対しては好意的な態度を示し、鎖国・攘夷政策を捨てて、開国政策を取り、日朝修好条規をきっかけとし、朝鮮の門戸開放を進めた。」(Wiki)
 1876年、ともあれ開国した朝鮮は日本と清に外交使節や留学生や視察団を送り、情報収集を行なって近代化策を学び始めた。また、日本の要求で1876年に釜山、1880年に元山、遅れて1883年に仁川を開港した。
 「閔妃は大院君の改革を差し戻すかのように、儒学者の支持を得る為に財政的に弊害となる書院を復設させ、各党派及び有能な人材を官職につけさせる人事行政をやめさせ、閔妃の重用する人物が要職に就くことになったので、大院君の政策によって官職に就いた者は官職を追われ、大部分の両班は失望し、これに対し、成均館儒生及び八道の儒生は王宮に押し寄せ、閔妃を非難する」「ちなみにこの頃の閔妃は、・・・元子(世子の冊封前の称号)を出産したので、巫堂ノリという儀式などを毎日行わせ、その額は国家予算の数倍にも及び・・・、各省庁の公金を使用し、貪官汚吏どもは競って閔妃に財物を献上しており、おかげで国庫は破綻」(Wiki)した。
 1882年に、興宣大院君らに扇動された軍人・民衆が、壬午軍乱と呼ばれる大暴動を起こした。
 『検定版 高等学校韓国史』は、「開港後、日本に米や豆が大量流出して米価が暴騰したため生活が苦しくなった下層民までがこれに加わり」と、米価暴騰を日本の責任にしているが、この当時、日本・朝鮮間の貿易はまだ限られたものだったので(それは、当該教科書153ページにある朝鮮の「輸出入額と重要出入品の割合」をみても明白)、悪質なこじつけである。
 「壬午軍乱鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、興宣大院君を清に連行・抑留した。清は朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた。日本は乱後、閔氏政権と交渉して公使館護衛のための日本軍駐留などを認めさせた。
 清は朝鮮に袁世凱を派遣して、袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握した。こののち袁世凱は、3,000名の清国軍をひきつづき漢城に駐留させた。朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める」。(Wiki)
 閔妃は親日的な政策から次第に清に頼る事大主義に戻っていった。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

憲法」カテゴリの最新記事