安倍首相には頑張ってもらわなくてはならない。日本という国家を重視しようとするスタンスは、高く評価されるべきだ。江藤淳に「影をなくした日本人」という一文がある。1965年1月4日に神戸新聞に発表された文章で、そこでは1964年10月10日号の「ニューヨーカー」の表紙が取り上げられている。聖火を掲げた青年走者の顔は、チョンマゲをとって髪を七三にわけた侍の顔であり、背景は12、3世紀の日本の絵巻物の世界であった。江藤はそれを見て時代錯誤的だと一瞬声をあげて笑ったが、すぐに「案外そうでもないかもしれないな」と反省したのである。日本人を異質に感じるアメリカ人の眼差しに促されて、気付かないでいる日本を再認識させられたのだった。「異質であることを、なぜマイナスと考えなければならないのであろうか。要するに、日本文化の有機的な統一を世界のなかに実証するための同等の願いが、いつか同意への願いにすりかえられたとき、われわれは自分の過去を忘れ、自己喪失への道を歩みはじめたのではなかったであろうか」。江藤が言いたかったことは、日本と西洋とは同一視できないという現実である。だからこそ江藤は「われわれは、日本人がどれほど西洋に似ており、自分がどれほど『日本人離れ』しているかを得意がるべきではなく、自分をいや応なく過去につないでいるさまざまなきずなに、静かな自信を持つべきである」と主張したのだ。近代化イコール西洋化が、「徹底的な自己喪失を日本人のもたらすであろう」ことを危惧したのである。
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