政治を政治屋にだけ任せてよいのだろうか。デモをすることだって表現の自由であり、それを抜きに民主主義を語ることはできない。安倍元首相がテロで殺されたときに、なぜ保守系団体は追悼のデモを行わなかったのだろう。声なき声が整然と訴えればよかったのである。それが大きな流れとなり、憲法改正にはずみがついたのではないだろうか。
今の自民党の大半は政治屋の集まりである。頭にあるのは選挙のことばかりである。大衆動員ということはまったく考えていない。それこそ日本会議などが音頭を取ればよかったのである。
マスコミが伝えようが伝えまいが、そんなことはどうでもいい。政治的な争点がクローズアップされた場合には、ネット上のつながりだけにとどまらず、街頭に出る覚悟が求められるのではないだろうか。自由と民主主義を守る戦いは、名もなき者たちの自然発生的なエネルギーが全てなのである。
本日投開票される奈良県知事選挙にしても、自民党県連の意向を無視して、自民党中央は高市大臣叩きに利用した。結果がどうなるかが注目されているが、保守の拠り所である高市大臣をなきものにしようとするのは、私たちにとっては耐えがたいことである。
香港や台湾の人たちのように、私たちも声を上げなくてはならない。中国に媚びる政治家があまりにも多いからである。今時赤旗を掲げてデモをするのは時代遅れである。そうではなくて、自由と民主主義を守るために決起するのである。政治屋を頼りにしていては、全体主義国家の属国になるのは目に見えているからだ。