今の習近平体制下の中国は、魯迅の言葉を借りるならば、暴君が支配している。にもかかわらず、民衆は反抗し、蜂起しようとはしない。なぜなのだろうか。
魯迅は「暴君治下の人民は、多く暴君より更に暴である。暴君の暴政は、しばしば暴君治下の人民の欲望を満足させることさえ出来ない」(『「随感録」六十五、民国七年』)と述べつつ、あえて中国のことには触れず、キリストを釈放しようとした執政官に反発し、彼を十字架に上すべく要求した人民を引き合いに出した。
そして、魯迅は「暴君の人民は、ただ暴政が他人の頭上に暴れるのを希望し、自信は、眺めて面白がり、『残酷』をもって娯楽とし、『他人の苦痛』をもって見世物とし、慰安とする」(『同』)と書いたのである。
虐げられた人民は、その桎梏から抜け出すことよりも、中国三千年の歴史が、他人の不幸を喜ぶような人間をつくりあげてしまったのだろうか。他民族の統治下にあった時代も長く、深い傷を残してしまったのだろう。
目下、東アジアに危機をもたらしている張本人は中国である。その習性を知らずしては、私たちは立ち向かうことはできない。断じて油断することはできないのである。