草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

尊皇の藩会津が目指したものと現代

2023年12月22日 | 歴史
 僕は会津だけが絶対であったとは思いません。忘れてならないのは、薩長土肥と同じように、会津もまた水戸学の影響下にあったということです。
 会津松平家の8代藩主の容敬公は、水戸からの養子です。同じく高須藩から養子に入った9代藩主の容保公とは、伯父甥の関係です。藩祖保科正之公は、朱子学者で神道の徒であった山崎闇斎を賓客として招き、自らが神として祀られています。水戸学と合体することで、王城の護衛者にふさわしい藩になったのです。
 その意味では、討幕派と同じように、新たな政権構想を胸に秘めていました。桜田門外の変以降の幕府の中枢権力は、あまりにも弱体化していたからです。
 このため、容保公が京都守護職を引き受けたのは、政治的指導者としての一橋慶喜(水戸藩つながり)、その当時の開明派の代表的論客である佐久間象山(吉田松陰の師)を擁して、日本を救おうとしたのでした。
 しかし、欧米列強に抗するためには、日本は一つにまとまる必要があり、権力闘争を避けては通れませんでした。戊辰戦争で敗れたことは恥ではありません。会津の人々は薩長藩閥であろうとも、背を向けたわけではなく、同じく明治新国家の建設に尽力したのです。僕からすれば「会津にも大義があった」ということを、知ってもらうだけでよいのです。
 そして今、我が国を取り巻く情勢は深刻を極めています。会津が主張すべきは、公というものを抜きにしては物事は語れないということです。戦後民主主義はそれを否定してしまいました。リベラルはそれを語ることすら拒否しています。それを批判したのが大熊信行でした。右左関係がありません。個を超えた価値に殉ずるという精神を再認識しなければなりません、それが日本を守り抜くことだと思います。武器よりも、精神性の高さが求められるのではないでしょうか。

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