戦争に敗れたことで、ようやく日本は民主主義の緒に就いたといわれる。占領軍がもたらした誤った見方が、現在もまかり通っているのである。
しかし、本当はそうではなかった。政党政治は根付いていたのであり、勇気をもって事に臨んだ政治家がいたのである。大正10年11月4日、東京駅でテロリストに刺殺された当時の原敬は、まさしくその人であった。
高村光一の『原敬』によれば、今とは違って「原敬時代の憲政会も、国民党も国民と共に政策を用意していた。とくに憲政会は次の選挙には政友会にととって代わるかも知れない政策を用意していた」のである。
それだけ政治に緊張感があったのだ。政権与党の自民党は何でもありの政党で、特定野党は、できもしない御託を並べ立てるだけだ。ようやくそれ以外の野党も出できたが、今後については未知数である。
「平民宰相」と呼ばれた原敬は、政友会の幹部になり、総裁になり、さらには首相になっても、狭い家に住みつづけたのである。
首相の親任式にも、原が古い靴をはいて出かけた。それを意に介さなかったのは、金持ちや特権階級のためではなく民衆のことを常に念頭に置いていたからだ。東北や九州の発展のために、鉄道を敷いたし、それまで秘密になっていた陸軍の予算を公開にした。
しかし、今と同じように、当時の新聞の原敬攻撃も目に余るものがあった。それだけに原は、あさこ夫人には「政治家は畳の上で死ねないのだから覚悟しているように」と口にしていた。
高村は『原敬』の「結語」において、戦後政治の不甲斐なさを批判した。「原敬が政治は責任であり、信賞必罰だと考え、施策を実行に移し、仕事をしないものは殆どコネがあっても淘汰し、法令のためには自分の兄さえ退職させたという不退転の意気込み程の政治家は見当たらない」と書いたのである。
官僚機構を改革し、政治のリーダーシップを取り戻そうとして、原と同じようにテロで殺害されたのが、安倍晋三元首相であった。自分の身を守ることに汲々としている政治家ばかりでは、日本は衰退する一方である。憎まれ役を引き受けた原敬や安倍晋三こそが真の政治家であり、政治家には国家国民のために身命を賭す覚悟が求められるのである。