つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

浅草雷門

2008年09月09日 | 名所
                      浅草の雷門

浅草の象徴である雷門(かみなりもん)は、浅草寺の山門。
正式の名称は、風雷神門(ふうらいじんもん)。

門に向かって、右側に風神、左側に雷神が配される、
朱塗りの山門である。
門の中央には、重さ600Kgを超える提灯が吊りさげられており、浅草のランドマークとなっている。
日本を象徴する風景として、外国人向けに日本を紹介するパンフレット、お土産のレリーフなどに採用されることが多い。

歴史
941年、安房国の太守であった平公雅が、武蔵国への配置転換を祈願。
翌年、配置転換の願いが叶ったことから、新天地での天下泰平と五穀豊穣を祈願し伽藍などの寄進を行った。
初代の雷門に相当する門は、その際に造られたとされる。

雷門の呼称は、江戸時代の川柳に初めて登場するが、それ以前のいつの段階から呼ばれるようになったかは不明である。
知名度に関しては、雷門の名が書かれた提灯が1795年に初めて奉納されており、浮世絵の題材に用いられたことから、以降、日本各地へ浸透したものと考えられる。

山門はしばしば火災により消失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられている。
最後の火災は1865年であり、以後、100年近く恒久的な建築物としての山門は姿を消す。

明治年間から太平洋戦争後にかけては、さまざまな形態の仮設の雷門が登場したと伝えられる。
いずれも博覧会の開催や戦勝記念など、時それぞれのイベント的な要素が強く、素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもさまざまであった。1904年の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられている。

1960年、松下電器の創設者、松下幸之助が門及び大提灯を寄進し、現在の雷門が成立した。
風神・雷神像は、江戸時代の頭部(火災により焼け残ったもの)に、明治時代に造られた胴体をつなげた物を引き続き使っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする