散日拾遺

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言葉の紳士録 001 人いきれ・草いきれ/ウツツを抜かす/わからず屋/症と性

2013-11-01 23:31:32 | 日記
原稿用紙に向かっていても、キーボードを叩いていても、文章を考えているとつい息を詰めてしまう。
息を詰めずに、深く穏やかな腹式呼吸を保ちながら文章が書けたら、きっと良いものになるだろうに、
などと思いつつ「言葉の紳士録」を書きとめてみる。

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〇 人いきれ

「いきれ」って何だ?
「熱れ」または「熅れ」と書くらしい。

「蒸されるような熱気。むし熱さ。ほてり。いきり。」(大辞林3版)

対応する動詞に二型あり。

① いきる(熱る、熅る) 
 1)熱気を帯びる 2)息まく、勢い込む

② いきれる(熱れる、熅れる)
 熱くなる、熱気でむっとする。

「いきり立つ」などというのは ①-2)から来ているのだな。

こう眺めてみて、「いき(息)、いきる(生きる)」の系列との連想が働くのは自然というものだろう。

人が生きている間は、「いき(息)」をしており、「いきれ(熱れ)」ている。
呼吸と体温は生存徴候としていずれ劣らず重要なものだが、その二つを表わす言葉が酷似しているわけだ。

「いきむ(息む)」と「いきる(熱る)」の類似も面白い。
息をつめて力みかえることと、熱をおびて息まくこと。
同時に観察されることも多いだろう。

「人いきれ」と「草いきれ」、他にもっとないかな、「いきれ」の眷属。

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〇 ウツツを抜かす

ブログを書き、碁に入れ込む己の姿だ。

ウツツはもちろん「現」なんだろう。
そもそもウツツという音の由来を知りたいものだが、さしあたり意味について。

これは「現実世界」すなわち外界の属性と思いこみそうだが、むしろ人の意識や心的内界の状態を表わすものである。
「目が覚めている状態」「正常な心の状態、正気、本心」「生きている状態」などである。

その「現」を「抜かす」ということは、「正気を失う」「意識をなくす」といった意味か。

類似のものに「現無し(うつつなし)」という言葉がある。
① 正気を失っているさま、ぼんやりと放心しているさま 
② しっかりした判断力がないこと
と解説されている。
ウツツの抜けた状態がウツツ無しなんだろう。

『徒然草』112段、例の激しいくだりに用例あり。

 この心を得ざらん人は、物狂いともいへ、現無し、情けなしとも思へ、毀るとも苦しまじ、誉むとも聞き入れじ。

この境地に至りたいものだ。

漢語に依らず、大和言葉で精神病理学を構築できないかと思ったりするのだが、それが実現した暁には、「ウツツ」は主体の内的状態を表わすものとして大事なキーワードになるだろう。

待てよ、「主体の状態」というより、「主体と外界の関係のあり方」というべきかもしれない。
こいつは面白そうだ。

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〇 わからず屋

珍しくNHKの朝ドラを見ていたら、「わからずや!」という歯切れ良い罵り言葉が出てきた。
久しぶりに聞いたこの言葉が何だか好ましく、にこにこしてしまった。

アホとかバカとかいった出口なしの断定と違って、「わからずや」には「こんなにわかってほしいのに、ちっともわかってくれない」というもどかしさが響いている。
「わかってよ!」という切なる要望が込められていること、無論である。
願いをこめた呼びかけであり、胸ぐらをつかんで押したり引いたりする親密さを帯びている。

よほど親しい間柄でなくては使えない言葉で、罵りの中にも関係性が彫りこまれているのだ。
この言葉を投げかけた瞬間に、関係がぐんと親しくなることも起きただろう。罵り言葉で関係を引き寄せるなんて、いろっぽいなあ。

ドラマでは、意中の男性との結婚を認めてくれない頑固親父にむかって、娘が叫んだのである。
ピッタリだ。

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〇 症と性

「心配性」を「心配症」と書く人があるが、「心配症」という病気は今のところ認知されていない。
ただ、人の性格のあり方として「心配性」と言い習わすのである。

「貧乏性」「苦労性」なども同じで、こう並べてみると性格もどちらかといえば、不安を帯びた負の特性に偏っているようだ。
人の性(さが)だからね。

ある卒論生の誤記をメールで注意する中で気づいたのだが、考えてみればこの区別は案外重要であり、教訓的である。
DSMでいえば、「心配症」はⅠ軸の事態、「心配性」はⅡ軸のそれということだ。

事の本質を表わす大和言葉に対して、漢字はこのような弁別力を持つのが頼もしい。

ただ、性には「さが」という先行する大和言葉があるけれど、症には(僕の知る限り)それがない。
とすると、「症」という発想自体を「漢意(からごころ)」としなければならないか。
この件、いずれあらためて。


牧野茂とアナウンサーの言い間違い

2013-11-01 07:57:29 | 日記
2013年11月1日(金)

田沢と上原が、二人ながら見事な活躍でRソックスをチャンピオンに押し上げた。
すごいなあ、こんな時代が来たんだな。

ポストシーズンにアメリカチームが親善試合に来ると、最初は時差ボケもあって日本代表が善戦するんだが、日を重ねるにつれて歯もツメも立たなくなる。
悔しいけれどこれが現実か、何でもアメリカが一番なのか、ザリガニまでアメリカが強いんだから、と悔しさを噛みしめていた少年期がウソのようだ。

川上哲治さんのこと、監督退任時の記者会見で両側に座ったONを称えたのはよく知られているが、あの時代を知るファンなら牧野茂(1928-1984)という人物の影の貢献を思わずにはいられない。
V9を支えた読売のヘッドコーチだが、選手時代はずっと中日だった。
退団後に新聞で読売の戦いぶりを批評する、その舌鋒の鋭さに目をつけてコーチに招いたという川上さんも、さすがただ者ではなかった。

牧野氏の貢献が日本のプロ野球全体に及んでいるというのは、組織野球理論 ~ いわゆる「ドジャーズ戦法」をアメリカから導入した点で、個人の能力の単純な総和を超えたチーム力が追及されるようになったのは、たぶんこのあたりからなのだ。
サードのコーチャーズボックスに立って、ベンチから受けた指示をサインに換えて発信する細身の姿は、野球ファンの記憶に地味に焼き付いているだろう。一見おだやかな印象を受けるが、実はかなり激しい感情の持ち主であったことがいくつかの挿話からうかがわれる。




この際に一筆しておこうと思ったのは、Wikiに載っていた次の話を見たからである。

 牧野の他界から5年たった1989年の日本シリーズ第5戦、それまでシリーズ無安打だった原辰徳が満塁本塁打を打って、喜びのあまり三塁コーチの近藤昭仁と抱き合った時に、興奮した日本テレビの吉田填一郎アナウンサーは、「原が三塁キャンバスを回って、牧野コーチと抱き合っています」と実況した。

何と素敵な間違いではないか。しかも没後すでに5年経っているのだ。
ちなみに近藤昭仁は、かつて大洋ホエールズの強力打線の一翼を担った好二塁手、コンニャク打法の近藤和彦とダブル近藤の一・二番はパワフルだった。

ここにささやかな因縁があるというのは、牧野と近藤は年は離れているが、いずれも香川県高松市の出身ということだ。
近藤は1938年生まれ、高松一高から早稲田へ進んだ。
牧野は1928年生まれ、高松商業在学中に空襲で実家が全焼し、疎開先の愛知で愛知商業に入って戦後の甲子園大会に出場、明大を経て中日入りする。
もちろん、それで吉田アナが「間違えた」わけではないのだけれど。

満塁本塁打の一球前、三振をとられても文句いえない球がボールと判定されている。
不調の原は、見送ったというより手が出ないのだと僕は思った。
次の球がシリーズを決め、近鉄バッファローズの日本一はまたも潰えた。

打たれたのは吉井理人、後にヤクルトへ移籍、さらにはアメリカへわたって活躍したのが記憶に新しい。