2013年11月14日(木)
締切を過ぎて抱えていた原稿が、ひとつ片づいた。
今日の空のように晴れやかな気持ち。
ついでに、東京女子大の講演の抄録校正が回ってきた。
テープから原稿を起こすのはたいへんな作業だ。今どき良いソフトウェアができていて、PCがやってくれるのかもしれないが。
何しろスタッフが頑張って良い粗稿を作ってくれたおかげで、こちらの作業は楽だった。
転載しておく。
もっとも、当日はもっといろいろ脱線してるし、その部分が面白かったんだけれど。
産声の瞬間に、新生児の体内でたいへんな事態 ~ 進化上の大ジャンプが起きてること、
創造主が幼児の泥んこ遊びのように無心に世界をつくったこと、
バナナケーキの話、
ケーキ作りと泥んこ遊びが似てること、
などなど。
*****
「生きる力と生かす力」
【呼吸の不思議】
もし生きるということをあくまで一人称で、「私が生きる」と考えたら、しんどいことも多いと思います。
「私たちが生きる」というのは、とりもなおさず何者かに私たちが生かされているということです。そのことに本当に気付いて実感できる時に、「生きる」ということがずっと楽になり、楽しくもなると思います。
「いきる」という言葉の語源は「いき」、つまり「息をする」ということに由来するとの説があります。
吸っては吐き、吐いては吸う、「息をする」動作の繰り返しには、非常に不思議なところがありますね。私たちは息をしようと思わなくても、息をします。忘れていても息をします。それは、心臓のことを忘れていても心臓は動き、胃腸のことを忘れていても胃腸が働いてくれるのと同じです。けれども心臓や胃腸は、私たちの意志によって動かしたり止めたり、動きを速くしたり遅くしたりすることはできません。これらの内臓は私たちの意志の支配を離れ、自律神経に支配されて勝手に動いています。ところが呼吸だけは、自律神経に支配されていると同時に、随意に速めたり遅くしたり、止めたり再開したりすることができます。自律的なコントロールと意志によるコントロール、この二重の支配を受けているのが呼吸の不思議なところです。
「生きる」ことも同じです。私たちは、ことさら「生きなければいけない」と考えなくても、だいたいは生きていけるのです。しかし人生の中で何度かは、「生きよう」「生きたい」「生きなければ」と、意志的に決断をしなければいけない時があります。まさに息遣いと同じ二重性がそこにあるのです。
【生きることの困難 ~ 精神疾患の現状(=わたしたちの社会の現実)】
多くの人がうつ病は増えていると思っているでしょう。意外かもしれませんが、実際にはうつ病は必ずしも増えていません。それは「うつ病」の定義に関係があることです。たとえば、ひと月に100時間を超える時間外労働を余儀なくされ、不眠不休で働き続けた末にダウンしてしまったケース。これは病気でしょうか。生じた結果は確かに病気なのですが、こんな働き方をしていれば病気になるのがあたりまえです。これは異常な刺激に対する正常な反応というべきでしょう。こういうものを、昔はうつ病と言いませんでした。抑うつ反応とか、ストレス反応という言い方をしたのです。昔ながらの「うつ病」とは、そういう原因が何も見当たらないのに、ひとりでに気分が沈んでいくケースを指していました。理由なく気分が落ち込んでいくから病気とされたのです。そのような昔ながらの、原因不明のうつ病は、減ってはいないけれど増えてもいません。増えているのは、強い環境ストレスによってブレイクダウンを起こしてしまう、反応性の抑うつ状態なのです。
こういうケースの多くは、最近の診断名では適応障害と呼ばれます。適応障害とは、何かはっきりとしたストレス因があって、それに対する反応としてうつになったり不安になったりするケースのことです。この適応障害が、最近ものすごい勢いで増えてきているのです。皆さんの周りでも、思いあたるようなことが起きていないでしょうか。
【人を支えるネットワークの綻び】
適応障害が急増しているのはなぜか、人によってはその原因を、「今の日本人が、昔に比べて折れやすく打たれ弱くなったからだ」と見るのですが、果たしてどうなのでしょう。そういう面もあるのかもしれませんが、私は個々の日本人が弱くなったということよりも、むしろ人と人とをつなぐコミュニティのネットワークが、至るところで綻(ほころ)びをきたしていることが問題なのだと思うのです。だから皆、大変なのです。地域の支えも、職場の支えも、家庭の支えも、ないとは言わないまでも、以前よりずっと弱くなった環境の中で、自分の面倒を自分で見ていかなければなりません。ひとりで頑張っていかなければなりません。そのことが皆さんを、非常に打たれ弱くしているのです。これからの時代に向けて、私たちはしっかりとコミュニティの作り直しをしなければいけないと思います。そうしないとメンタルヘルスの状況も改善しないでしょう。
【患者さんが運んでくるもの】
精神科医として診療していてつくづく思うのですが、患者さんが外来へやってくるというのは、実は大変な作業なのです。病気のつらさを抱え、見も知らない医者や看護師に出会う不安を乗り越えて外来に足を運ぶ患者さんは、そこに来た時点で既に大きな仕事をしています。その熱意と努力が、その人自身を良くするということがあるように思うのです。
外来診療の日には朝9時過ぎから夕方の6時頃まで、一日中他人の悩みに耳を傾けていることになります。そこで、「そういう仕事をしていて疲れませんか」「自分の方が、うつになりませんか」と訊かれることがよくあるのですが、不思議なぐらいそういうことは起きないのですね。自分が医者として患者さんを治すというよりも、患者さんが一生懸命とりくんでいる自己治療の作業に参与し、手伝っているという感覚が強いのです。そこで、いつも思い出す聖書の言葉を紹介しましょう。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。元気に暮らしなさい。」(マルコによる福音書5:34)。これは12年間にわたって出血性疾患を患っていた女性の話です。この女性がせめてイエスさまの服にでもふれれば、癒していただけるに違いないと思って、群衆の中でイエスさまの服にしがみつく。イエスさまは自分の中から力が出て行ったのを感じ、「触ったのは誰か」とおっしゃって振り返る。恐る恐る進み出た女性に、イエスさまがおっしゃったのが先ほどの言葉です。
キリスト教の教えでは、救いは私たちが自力で獲得するものではありません。もっぱら上から下されるものです。神様の恵みが私たちを引き上げるのであって、私たちは自分を救うことはできません。しかし、イエスさまはあえて「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるのです。「生きたい」「よくなりたい」「健康になりたい」、そう願う私たちの願いは、必ず何事かをなしとげます。それは神様の救いの仕事の、大事な一部分を占めるものとさえなるのです。そのことを聖書は語り、私は日々の診療の中でそれを実感しています。私たちは皆、無力であるけれども無力ではありません。自分で自分を生かすことはできませんが、生かしていただく作業の大事な一部分を担うことができるのです。
【絆の強さ】
アルコール依存症の方々の集う、「断酒会」というコミュニティがあります。中でもAA(alcoholic anonymous 匿名断酒会)はアメリカで始まったものです。そのミーティングに参加するのに、資格や肩書きはいらない、むしろ全部捨ててきなさいという、それが「匿名」の理由です。酒というものに打ち負かされた、一人の人間としてそこに参加する。そこで何をするかというと特別なことは何もないのです。ただ頻繁にミーティングをやって、そこでお互い語りっぱなしに語り合います。それぞれのつらさや思いなどを話し、お互い無批判に聞くのです。ただ、語って聞いてというそのミーティングをひたすら繰り返します。効果があるのですよ。断酒会につながった人の断酒率や生存率は、参加しなかった人よりもはるかに良いのです。人が集まることには、こんなに力があるのかと思います。
農村共同体が崩壊し、職場が共同体であることをやめ、家庭が力を失いました。そのいっぽうで、たとえば断酒会のような、お互いがお互いの運命に関して真剣に関心をもっているコミュニティが生まれています。精神障害者のコロニーの中にも同じようなものがあるのです。一人ではできないことも、お互いに助け合って達成することができます。これがお互いを活かす力だと思います。
私たちは生きる力を与えられています。現に生かされているということが、その証明です。けれども時として、その力に自信のなくなる時があるでしょう。そのような時、仲間を見出すことができ、神さまの力を見出すことができるならば、私たちはまた先へ進むことができるのです。
締切を過ぎて抱えていた原稿が、ひとつ片づいた。
今日の空のように晴れやかな気持ち。
ついでに、東京女子大の講演の抄録校正が回ってきた。
テープから原稿を起こすのはたいへんな作業だ。今どき良いソフトウェアができていて、PCがやってくれるのかもしれないが。
何しろスタッフが頑張って良い粗稿を作ってくれたおかげで、こちらの作業は楽だった。
転載しておく。
もっとも、当日はもっといろいろ脱線してるし、その部分が面白かったんだけれど。
産声の瞬間に、新生児の体内でたいへんな事態 ~ 進化上の大ジャンプが起きてること、
創造主が幼児の泥んこ遊びのように無心に世界をつくったこと、
バナナケーキの話、
ケーキ作りと泥んこ遊びが似てること、
などなど。
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「生きる力と生かす力」
【呼吸の不思議】
もし生きるということをあくまで一人称で、「私が生きる」と考えたら、しんどいことも多いと思います。
「私たちが生きる」というのは、とりもなおさず何者かに私たちが生かされているということです。そのことに本当に気付いて実感できる時に、「生きる」ということがずっと楽になり、楽しくもなると思います。
「いきる」という言葉の語源は「いき」、つまり「息をする」ということに由来するとの説があります。
吸っては吐き、吐いては吸う、「息をする」動作の繰り返しには、非常に不思議なところがありますね。私たちは息をしようと思わなくても、息をします。忘れていても息をします。それは、心臓のことを忘れていても心臓は動き、胃腸のことを忘れていても胃腸が働いてくれるのと同じです。けれども心臓や胃腸は、私たちの意志によって動かしたり止めたり、動きを速くしたり遅くしたりすることはできません。これらの内臓は私たちの意志の支配を離れ、自律神経に支配されて勝手に動いています。ところが呼吸だけは、自律神経に支配されていると同時に、随意に速めたり遅くしたり、止めたり再開したりすることができます。自律的なコントロールと意志によるコントロール、この二重の支配を受けているのが呼吸の不思議なところです。
「生きる」ことも同じです。私たちは、ことさら「生きなければいけない」と考えなくても、だいたいは生きていけるのです。しかし人生の中で何度かは、「生きよう」「生きたい」「生きなければ」と、意志的に決断をしなければいけない時があります。まさに息遣いと同じ二重性がそこにあるのです。
【生きることの困難 ~ 精神疾患の現状(=わたしたちの社会の現実)】
多くの人がうつ病は増えていると思っているでしょう。意外かもしれませんが、実際にはうつ病は必ずしも増えていません。それは「うつ病」の定義に関係があることです。たとえば、ひと月に100時間を超える時間外労働を余儀なくされ、不眠不休で働き続けた末にダウンしてしまったケース。これは病気でしょうか。生じた結果は確かに病気なのですが、こんな働き方をしていれば病気になるのがあたりまえです。これは異常な刺激に対する正常な反応というべきでしょう。こういうものを、昔はうつ病と言いませんでした。抑うつ反応とか、ストレス反応という言い方をしたのです。昔ながらの「うつ病」とは、そういう原因が何も見当たらないのに、ひとりでに気分が沈んでいくケースを指していました。理由なく気分が落ち込んでいくから病気とされたのです。そのような昔ながらの、原因不明のうつ病は、減ってはいないけれど増えてもいません。増えているのは、強い環境ストレスによってブレイクダウンを起こしてしまう、反応性の抑うつ状態なのです。
こういうケースの多くは、最近の診断名では適応障害と呼ばれます。適応障害とは、何かはっきりとしたストレス因があって、それに対する反応としてうつになったり不安になったりするケースのことです。この適応障害が、最近ものすごい勢いで増えてきているのです。皆さんの周りでも、思いあたるようなことが起きていないでしょうか。
【人を支えるネットワークの綻び】
適応障害が急増しているのはなぜか、人によってはその原因を、「今の日本人が、昔に比べて折れやすく打たれ弱くなったからだ」と見るのですが、果たしてどうなのでしょう。そういう面もあるのかもしれませんが、私は個々の日本人が弱くなったということよりも、むしろ人と人とをつなぐコミュニティのネットワークが、至るところで綻(ほころ)びをきたしていることが問題なのだと思うのです。だから皆、大変なのです。地域の支えも、職場の支えも、家庭の支えも、ないとは言わないまでも、以前よりずっと弱くなった環境の中で、自分の面倒を自分で見ていかなければなりません。ひとりで頑張っていかなければなりません。そのことが皆さんを、非常に打たれ弱くしているのです。これからの時代に向けて、私たちはしっかりとコミュニティの作り直しをしなければいけないと思います。そうしないとメンタルヘルスの状況も改善しないでしょう。
【患者さんが運んでくるもの】
精神科医として診療していてつくづく思うのですが、患者さんが外来へやってくるというのは、実は大変な作業なのです。病気のつらさを抱え、見も知らない医者や看護師に出会う不安を乗り越えて外来に足を運ぶ患者さんは、そこに来た時点で既に大きな仕事をしています。その熱意と努力が、その人自身を良くするということがあるように思うのです。
外来診療の日には朝9時過ぎから夕方の6時頃まで、一日中他人の悩みに耳を傾けていることになります。そこで、「そういう仕事をしていて疲れませんか」「自分の方が、うつになりませんか」と訊かれることがよくあるのですが、不思議なぐらいそういうことは起きないのですね。自分が医者として患者さんを治すというよりも、患者さんが一生懸命とりくんでいる自己治療の作業に参与し、手伝っているという感覚が強いのです。そこで、いつも思い出す聖書の言葉を紹介しましょう。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。元気に暮らしなさい。」(マルコによる福音書5:34)。これは12年間にわたって出血性疾患を患っていた女性の話です。この女性がせめてイエスさまの服にでもふれれば、癒していただけるに違いないと思って、群衆の中でイエスさまの服にしがみつく。イエスさまは自分の中から力が出て行ったのを感じ、「触ったのは誰か」とおっしゃって振り返る。恐る恐る進み出た女性に、イエスさまがおっしゃったのが先ほどの言葉です。
キリスト教の教えでは、救いは私たちが自力で獲得するものではありません。もっぱら上から下されるものです。神様の恵みが私たちを引き上げるのであって、私たちは自分を救うことはできません。しかし、イエスさまはあえて「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるのです。「生きたい」「よくなりたい」「健康になりたい」、そう願う私たちの願いは、必ず何事かをなしとげます。それは神様の救いの仕事の、大事な一部分を占めるものとさえなるのです。そのことを聖書は語り、私は日々の診療の中でそれを実感しています。私たちは皆、無力であるけれども無力ではありません。自分で自分を生かすことはできませんが、生かしていただく作業の大事な一部分を担うことができるのです。
【絆の強さ】
アルコール依存症の方々の集う、「断酒会」というコミュニティがあります。中でもAA(alcoholic anonymous 匿名断酒会)はアメリカで始まったものです。そのミーティングに参加するのに、資格や肩書きはいらない、むしろ全部捨ててきなさいという、それが「匿名」の理由です。酒というものに打ち負かされた、一人の人間としてそこに参加する。そこで何をするかというと特別なことは何もないのです。ただ頻繁にミーティングをやって、そこでお互い語りっぱなしに語り合います。それぞれのつらさや思いなどを話し、お互い無批判に聞くのです。ただ、語って聞いてというそのミーティングをひたすら繰り返します。効果があるのですよ。断酒会につながった人の断酒率や生存率は、参加しなかった人よりもはるかに良いのです。人が集まることには、こんなに力があるのかと思います。
農村共同体が崩壊し、職場が共同体であることをやめ、家庭が力を失いました。そのいっぽうで、たとえば断酒会のような、お互いがお互いの運命に関して真剣に関心をもっているコミュニティが生まれています。精神障害者のコロニーの中にも同じようなものがあるのです。一人ではできないことも、お互いに助け合って達成することができます。これがお互いを活かす力だと思います。
私たちは生きる力を与えられています。現に生かされているということが、その証明です。けれども時として、その力に自信のなくなる時があるでしょう。そのような時、仲間を見出すことができ、神さまの力を見出すことができるならば、私たちはまた先へ進むことができるのです。