散日拾遺

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責任二態/不可視の実在/別離と獲得

2013-11-18 07:14:19 | 日記
2013年11月18日(月)

「責任がない」と訳されている箇所の原語を確認。

この人の血について、わたしには責任がない。あなたがたの問題だ。(マタイ27:24)
αθωος ειμι απο του αιματος τουτου. υμεις οψεσθε. 

あなたがたの血は、あなたがたの頭に降りかかれ、わたしには責任がない。(使徒言行録 18章6節)
το αιμα υμων επι την κεφαλην υμων. καθαρος εγω απο του.

 実際は別の単語であった。

 前者は αθωος = α+θωη(罪)で、「罰せられない unpunished」という意味での「無罪 innocent」を意味するらしい。θωηは聖書の問題とする「罪」 αμαρτιαとは違った法律用語と想像され、事実、聖書には用例がない。英語の crime と sin に相当する違いなのだろう。
 ローマ皇帝の官僚として現世の法秩序を管理する立場にあったピラトが、このような言葉を用いるのは至って自然なことだ。
 
 後者は καθαρος、物理的・道徳的に清いことを意味し、英語なら clean がぴったりする。パウロはまさしくそのような意味で、福音を口汚く罵って拒絶するもの達から自分が隔絶されていることを宣言する。服の塵を払う動作は呪術的な象徴性をもち、「聖く分かたれた」ファリサイの出自を思い起こさせる。

 またしても翻訳だ。「責任がない」という同じ日本語に落とし込まれては、こんなことでもなければ気づくすべもない。見かけは同じでも、ピラトとパウロの言明の意味ははっきりと違う。 単に違うというだけでなく、この対照が両者の本質を鮮やかに浮きあがらせている。

 責任論についていうなら、何かに対して「責任がない」という防御的・緊急避難的言明に注意を払うより、自分が何に対して「責任がある」かを問う方が建設的であるのは無論のこと。これについて、responsibility という言葉は示唆に富む。それは語源上 response(=応答)と同根で、自分に問われていることに対して誠意ある応答を為すことが、「責任」の原型であることを明示する。
 自分は、誰から何を問われているか。

*****

 冥(くら)い目には見えないが確かに存在している必然的な連関(=利き)を、ひとつでも多く豊かに見えるようになること、それが向上ということだ。サバキやシノギはこの目的に向けての研鑽に、最上のテーマを提供する点で貴重なのだ。
 え?
 碁の話ですよ、最初から。

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 いつまでも抱えているから身につかない、ということがある。読み終えた本は売るか譲るか、いっそ捨ててしまうと良い。そう決めた時に初めて身につくだろう。
 人も同じで、訣別し喪の作業を終えた時に初めて、彼の人から受けたものが自分の一部になるということがある。イエスが天に去ったからこそ、神は聖霊の persona をまとって信徒の身に回帰する。イエスが地上に存在し続けたら、彼はいつまでも目に見える「他人」のままであっただろう。
 そうは言ってみても、そんなこと自分にはできはしない。身になどならなくてよい、何ものも一物も捨てたくはないし、愛する誰一人として失いたくない、そう主張する自分もまた真実であって。

 資料の類は期限付きで捨てるものとして、ちゃんと目を通した方が身になるだろうな。これは確かなことだ。
 今でしょ!