散日拾遺

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責任からアイデンティティへ

2013-11-19 07:06:26 | 日記
2013年11月18日(月)

次男より:
 読みました!
 確かに昨日の礼拝で、パウロの言葉がピラトに妙に似ていたので「あれ?」と思ったのですが、なるほど「責任」には二態あったのですね。原語にあたる意義を改めて感じます。
 法的なものと道義的・倫理的なもの、ここでも二つが混同されているように見えます。「赦し」の話につながるところがあるのも分かります。

 ところで、どうも最近はこういった話題になると、自分の「世代」の問題に引き寄せて考えてしまいます。つまりいわゆる「歴史的責任」のことです。戦争・原発・社会保障・財政など様々な分野で、前の代の遺産は次の代の「責任」として降りかかりますよね。
 出来事の起こった原因に直接関わっていなくとも責任が生じる、というかそれを認めないと大変なことになるので誰かが責任を持つ必要がある、というのは事実として引き受けなくてはならないでしょう。
 確かに「理不尽」なのだけれど、その「理不尽さ」を否定すれば自らのアイデンティティを主張することの正当性も消えてしまう。そう思います。といって、全てを引き受ける訳にはいかないのが難しい所だとは思うのですが(^_^;)

次男へ:
 君という人の良心性ですね。
 僕はいわゆる「戦争を知らない」世代に属し、「自分がやったのでもないことの責任を問われても困る」という思いと、「親たちがきちんと幕引きできず、そこには無理のない事情もあったとするなら、よし、この責任を負っていこうじゃないか」という(見回せば、かなりレアな)思い、さらに戦争はおろか学園紛争にも間に合わなかったという取り残され感など、あれこれ入り乱れて結局ノンポリという、情けないありさまだったように振り返ります。

 ふと思ったのですが、
 「同じ日本人のしたことなのだから、責任を引き継ぐのが当然」という命題の当否から出発するほかに、「主体Aが主体Bの責任を引き継ぐことを決意する時、AとBの間に共通のアイデンティティが生じる」という発想もあるかなと、返信を読んで考えました。
 「アイデンティティを共有しているから責任を引き継ぐ」のではなくて、「責任を引き継ぐところにアイデンティティが発生する」のだと。
 もちろん虚構性は常に付きまとうのだけれど、それがいま君の直面しているアイデンティティ形成の相なのだろうと思います。
 アイデンティティ形成は図式的には若者の課題ですが、実はアイデンティティの絶えざる確認・更新が、人の生涯にわたるテーマなんですよね。国民形成も実は同じことで、日本国民は未だ形成されつつある途上とも言えるかな。
 別に日本に限ったことではなく、形成プロセスが停止する時はその文化が終わる時なのかもしれません。形成途上というより、ある意味で形成プロセスがまだ始まっていないのではないかと、それを憂うのかな。この点でもアメリカとは好対照のように思われます。

 (備忘:早期完了型など・・・)