散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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田園日記 その4

2013-11-05 23:32:17 | 日記
2013年11月5日(火)

のどかな晴天の連休明け、今日は体を動かした。

屋敷の西の竹林、勢いよく伸びて増えて、伐っても伐っても追いつかない。
竹の青々としてまっすぐな姿は好きだし、風が吹くと竹と竹のふれあう不思議な音がするのも魅力だが、残念なことにタケノコができないので価値が甚だ低い。しかも隣家に侵入して屋根を害する勢い。
なので今朝はこれを「伐れるだけ伐る」という親父殿の命で、ひたすら伐りまくった。

竹を伐るのは、ノコがあれば造作ない。二引き、三引きで潔く切れる。繊維の方向にはめっぽう強くて「しなり」も強靱だが、垂直方向の切断には弱いのである。
問題はその後で、6~7mにも及ぶ竹の先端に葉が良く茂り、しかも初めから隣家へ向けて傾いていたりすると、伐った途端に倒れて屋根を傷めることになりかねない。しかも竹林は屋敷の北西隅の、足場の悪い斜面に密集しているから、これを引っ張り出すのが難儀なのである。それで父ひとりの手には余ったのだ。
2時間あまりも伐っては運び伐っては運び、半ばで今日は終わりにしたが、積み上げたものを後で数えたら、ざっと百本近くあった。



昼過ぎにNTT西日本がやってきて、インターネットのルータ交換。
室内での作業とあわせ、外では工事車が電柱からの引き込み部分をいじり、さらに交通整理のおばちゃんがスクーターで同道してきている。100m向こうにバイパスができてから、うちの前はほとんど車通りがなくなったから、手持ちぶさただったろう。

午後は雨樋の掃除に、実をつけないクルミの巨木の枝おろし、竹狩りの続きに剪定と、庭周りで一日すごした。
あっという間に黄昏が近づき、海にかかった夕陽を背景に荒れた庭が色を落としていく。その中で庭のあちこちのサザンカが、白、紅、ピンクの花をぼんやり浮かばせる。サザンカって、良い植物だ。丈夫で気取りがなく、それでいて和菓子のように美味しそうな花をつける。

この庭はサザンカが多いのだ。
特に前庭と中庭の境にあるサザンカの大木は圧巻で、ハチやアブや蝶など常に千客万来、互いに争いもせず高低棲みわけて、てんでに蜜を吸っている。花は白、枝のしだれるのが珍しい。夏の日に、きらきら光る長いヘビが太い枝に巻きついていたっけ。

 サザンカをふと面影に重ねたり (子規、ではない)

 サザンカにふと面影を重ねたり (これも子規ではない)

 サザンカにその面影を重ねたり (これも違う、でもこれがいいや)



追伸・・・というのもヘンだが、PCを閉じて寝ようと思ったら、足もとをでっかいネズミがコトコトと走っていった・・・

悔い改めと赦しと神の personality/移行対象と水商売の力動的連関

2013-11-05 06:46:34 | 日記
2013年11月5日(火)

日曜日に次男が小学科の礼拝を担当したはずで、どんな話をしたのか気になっていた。
サムエル記(下)7章、ナタンの預言という地味な箇所だが、どうやら「悔いあらため」と「赦し」についてきっちり話したらしい。
偉いなあ。

彼としては、「悔い改め」はカント流に言えば定言的命令であって「赦し」の条件ではない、そこのところが子どもにちゃんと伝わってほしいのだという。
ごもっともだが、そもそも大人にちゃんと伝わっているかどうか。

マルコ福音書冒頭を考えてみるとよい。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔いあらためて、福音を信ぜよ。」

洗礼者ヨハネは、「赦しを得たければ悔いあらためよ」とは一言もいっていない。
まさに定言的命令として、単に「悔いあらためよ」という。
神の国が圧倒的なリアリティをもって接近してくるとき、それ以外の反応様式はありえないからだ。
(碁でも「単に」デる、ツケるが筋が良いとしたものだ。)

同様に神もまた、神の側の必然として赦すほかはないから赦すのだ。
双方に大いなる潔さがあり、信頼がある。打算もなければ取引もない。
ただ、神という「personality」の成長は・・・
いや、この件はとりあえず控えておこう。

予備的に言っておくと、神の personality(人格)などというと「ええっ?」と驚かれるが、これは「人格」という言葉をこちらから投影するのがそもそも転倒なのだ。
だって personality は persona から来ているんで、神は三つの persona から成るというのが「三位一体説」なんだから、そもそも神の属性のはずだ。
それを「神の形に作られた」人間が拝借しているのである。

persona 概念がそもそも投影でしょ、って?
それはそうなんです。だから面白いんじゃないの。
キリスト教信仰のイデオロギー性(マルクス風)とか、信仰における防衛機制(フロイト流)とか、最高に面白いのにな。
それで揺るがされるペラい信仰なんて、信仰じゃないよ。

***

ウィニコットの「移行対象」というのはよくできたアイデアで、幼子らの真剣な関心事をよく表している。
ライナスの毛布はその典型で、長男の場合はまさに「毛布君」がそれだった。長年のご愛用で虫食い・穴だらけながら、今も彼のお側でちゃんと仕えている。
僕は身辺に移行対象だらけの退行的な生活を送っているが、愛用の組み立て式ベッドがいつの間にか見当たらなくなっているのに気づいて、数日前に半泣きになった。
被災地などで痛ましく思われることのひとつは、それぞれ大事にしていたはずの移行対象の形見が失われることだ。それで揺るがないほど対象関係が健全に確立している人ばかりではないはずで。

それとこれとどういう関係があるか、およそ見当もつかないけれど、ともかくこれと前後して頭に浮かんだ(?)のが、かつて某・小児精神科医の言った言葉。
「精神科医は基本的に水商売と変わらないのであり、それが見えていないのは医者だけだ。」

念のために言えば、何かと話題の多いこの先生は数年前から都内某所で開業しており、きょうびの都市部における心療内科外来の機能についてそう喝破したのである。
趣旨は分かるし同感でもある。
むろんこの場合、「水商売」は決して先方を価値下げする意味を含んでいない。同じと言われて医者が「水商売と同じなんて!」と相手を価値下げしようとする瞬間、医者が自身を価値下げすることになるカラクリだ。

「ふぅん、そうなんですか?」
とある患者さん。

「そうですよ、僕らホストさんと変わらないよ。ただ、イケメンでもなければ、女性心理も分かっちゃいないからね、そのスキル不足を補うのが白衣の権威ってわけです。」
この医者、少々ヤケ気味である。

相手はあきれもせず、
「へぇ、先生、それって深いねえ・・・」

深い・・・かな。
そう言ってくださるあなたさまは、何者さま?

***

締め切りすぎた原稿が、やっと少し楽しくなってきた。
ひょっとしたら書ける、かも。