散日拾遺

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林子平 ~ 「死にたくもなし」「月と日の」

2013-11-28 10:41:44 | 日記
2013年11月28日(木)

 PC上でかたづけものをしていたら、もう10年も前に書き留めたものが目にとまった。

「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」

 林子平である。
 『三国通覧図説』『海国兵談』を著わしてロシアの脅威を説き、「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破した卓見の士、分不相応にも幕政に容喙することを咎められ、仙台の兄の許に蟄居させられた際の狂歌で、これを踏まえて自ら「六無齋主人」と号した由。「版木なし」とは言うまでもなく没収された謂、このクソ度胸が男の意気地で最高にカッコイイのだ。こんなことで死んでたまるか。
 元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日)、何となく思っていたよりも時期が早く、黒船来航に小一世紀も先んじての卓見である。
 「寛政三奇人」というが、あとの二人、高山彦九郎と蒲生君平について僕は何も知っていない。ついでに見てよう。

 高山彦九郎:1747(延享4)年 - 1793(寛政5)年、上野出身の尊皇思想家。
 蒲生君平:1768(明和5)年 - 1813(文化10)、下野出身の儒学者・尊王思想家・海防論者。

 そうか、単なる「奇人変人」として括られたのではなく「海防」「尊皇」が共通項なのだ。高山彦九郎も蝦夷地に渡ろうとして果たさずとある。「海防」は必然的に幕藩体制の止揚克服につながるから、「海防」と「尊皇」がセットになるのは分かりやすい。そのうえで三者には強調点の違いがあり、図式化すれば下記のようになるか。

 林子平   海防 > 尊皇
 高山彦九郎 海防 < 尊皇
 蒲生君平  海防 ≒ 尊皇 

 林子平と高山彦九郎は没年が同じ、1793年はフランス革命のさなかにピネルがビセートル病院で、精神病者たちを鎖から解放したとされる年である。

 
肖像は徳斎筆、大槻盤渓賛。銅像は仙台市・勾当台(こうとうだい)公園。
ともにWikipediaより転載。

***

 誰か伝記でも書いていないかとサーチしてみたら、下記のページに行き当たった。
 「日本漢文の世界 ~ 『林子平傳』(斎藤竹堂)現代語訳」
(http://kambun.jp/kambun/saitochiku-hayashi-yaku.htm)
 マツモト・ジュンさんの copyright が表示されている。なので全文はそちらを拝見することとして、感銘を受けた点を二、三。

 六無齋先生にとって「海防」が主で「尊皇」は従であったことを示す逸話あり。「閑院宮尊号事件」に際して彼が松平定信に語ったこと。
「子平は笑って言った。
『幕府にとって天皇家のことは、家の中の問題にすぎません。事件が起こったとしても、夫婦喧嘩みたいなものです。それによって家がなくなるということは、まずありません。しかし、外国の侵略は、家の外から来る大盗賊のようなものです。きちんと備えをしておかなければ、家ごと奪われてしまいます。憂慮なさらねばならないのは、こちらの方でございます。』」
 「三奇人」というけれど、他の二人とは必ずしも馬が合っていなかったらしいのは、このあたりの温度差にも依るかもしれない。

 『海国兵談』には、「なかでもわが国の南北の諸島は、軍事的に重要である。これらの諸島の重要性を認識せずに放置しておれば、外国に占拠されて、侵略拠点にされてしまうだろう。そうなれば取り返しがつかない事態になる」との指摘がある由、慧眼驚くべし。
 しかし、尖閣という南の島々が中国との間で問題になろうとは、さすがに予想しなかっただろう。古来の中華秩序の中ではそもそも領土的野心が問題となること薄く、これとは全く違って領土侵略を目的に東漸し南進するヨーロッパ勢力への警戒を、子平は説いたのだから。

 最後に、蟄居の幕命に服して自室から出ようとしない彼に、誰に知れるわけでもないからと周囲が外出を勧めたとき、彼の返した歌。

 月と日のかしこみなくば折折は人目の関も踰ゆべきものを

 お天道様、お月様の目はごまかせないというのだ。かくて他界の日まで、ついに一歩も屋敷から出なかったという。そのために何ほどか寿命を縮めたことだろう。

 偉人だ。