散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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上様?

2014-07-15 22:31:19 | 日記
2014年7月15日(火)
 大河ドラマが本能寺の変に差し掛かり、いよいよ官兵衛の働きどころ。
 中国大返しと山崎の合戦がドラマの表とすれば、この時わずかな供回りを連れて堺にあった家康が、鈴鹿の山中を突っ切って浜松へ逃げ伸びる道行はその裏である。途中で別れた穴山梅雪(武田信玄の実弟)は、落ち武者狩りにあって落命した。このあたりの人間模様はむやみに面白く、いつ見ても何度読んでも他愛なく夢中になる。演出や演技が少々ヘボでも紛れてしまう。が・・・
 しかしですね、考証はきちんとありたいのだ。 
 安土城の饗応の場面で、信長が家康を「おぬし」呼ばわりし、家康が信長を「上様」と呼ぶ。口頭での呼び方を記録した資料もあるまいから、想像によって再現するしかないのだが、そういう時こそ歴史の理解や解釈が問われるわけで。

 「おぬし」のぞんざいさはともかく、「上様」はおかしい。これは臣下が主君に対して用いる呼称だから、秀吉や勝家が信長を「上様」と呼ぶのは当然だが、家康は臣下ではない。政治的な影響力にかなりの格差があるとはいえ、曲がりなりにも対等の同盟者である。「上様」はあり得ない。
 徳川は織田の東の備えとしてつらい役に耐えながら、あくまで独立の一家を主張し、そこに存在を賭けていた。そこは信長も重々承知で、武田攻めの慰労とその後の家康による歓待への答礼として安土で最高級にもてなし、その差配にしくじった光秀を面罵叱責した(一説には森蘭丸によって鉄扇で打たせた)ことが、本能寺の伏線にあったという。
 「家康殿」に「信長様」あるいは「右府様」ぐらいのところで、「上様」はヘンなのだ。

 ついでに言うなら、この手のドラマは大概「家康=狸親爺」説に囚われて、家康の描き方がいびつになっている。最悪は『天地人』だった。
 忍耐と老獪は幼年期に人質生活を強いられた家康の身上だが、その全てではない。成人後の家康は、西上する今川の部将として先鋒をつとめたのを皮切りに、桶狭間の瓦解後は織田の忠実な同盟者として難戦の連続、信長が尾張の弱兵を工夫で強くしたのと対照的に、頑健精強な三河衆を率いて愚直に戦い続けた。そして強かった。
 姉川では浅井勢を圧倒する傍ら、朝倉に崩されようとする織田軍の急を救った。三方原では戦国最強の武田勢に敢えて挑んで完敗したが、後で戦場を検分した信玄が「三河勢の遺骸に浜松へ頭を向けたものがない」と舌を巻いた。本能寺の変後は、日の出の勢いの秀吉と小牧・長久手に戦い、戦闘に勝って政略に負けた。

 地味だが屈強の三河衆は、領国経営においても一種不思議なまとまりを示したらしい。
 「「三河岡崎衆」という、この酷薄な乱世のなかではめずらしいほどに強固な主従関係、というよりもはや共同の情緒をもつ集団」
 「この小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになった」云々、
 いずれも司馬遼太郎『覇王の家』が評するところである。
 同書からもう一か所、
 「家康は二十年ちかい歳月のあいだ、武田の大勢力に圧迫され続け、ときに滅亡の危機に瀕しながらもついに屈しなかったという履歴をもっている。さらに三方ケ原の戦いにあっては、移動中の武田軍に対し、百パーセント負けるという計算をもちながら、しかも挑戦し、惨敗した。この履歴は、家康という男の世間に対する印象を、一層重厚にした。秀吉が、二十四か国の覇者でありながら、わずか五か国のぬしである家康に対して一度も恫しの手を用いず、ひたすら懐柔につとめたのは、家康のそういう履歴を知りぬいていたからであった。」(新潮文庫 P.307-8)

 せめてこれぐらいは読んでから、脚本書いてほしいかな。
 悪役が薄っぺらいと、主人公がバカに見えるからね。

筆者の経歴 ~ ジーナ・ルック=パオケ

2014-07-15 12:51:36 | 日記
2014年7月15日(火)

 『煙突掃除屋さん』は一瞬で見つかった。本棚のすぐ手近に、40年間ちゃんと鎮座していた。
 正確には"Geschichten vom kleinen Schornsteinfeger" 『小さな煙突掃除屋さんの物語』。筆者は Gina Ruck-Pauquèt、アクサンが入っているから先祖にフランス人がいるのかな、すると名前は ジーナ・ルック-ポーケ と読むんだろうか、ドイツ式ならパオケだな。
 アルファベットのまま打ち込んだら、ドイツ語で紹介文が出てきた。このぐらいなら読めるけれど、ふと試しにインターネット上の「このページを翻訳」ボタンを押してみたその結果は・・・

***

 ジーナ ジャーク p. ケルンを生まれ。彼女の母親は、歯科医のヘアカット、父。彼女は再び中学校前すぐにそれらを左に体育館に出席しました。
"あまり効率から、適応強制不誠実。学校を与えたものを教えてくれる誰か新鮮な空気。人間の性質について優しさは、カリキュラムには何もだった。これのどれも、我々 非常に緊急に必要がある."
彼女は歯科助手として手を出して、学校に通ったファッション サロンで働いた、アコーディオン、裁判所 Bildreporterin のマネキンおよび写真のモデルでは、広告のアシスタントの代表だった。
彼女はそれ以上の調査およびそれ以降の心理学。
ジーナ ジャーク p. 17o の子供と青少年の書籍を出版しました。詩、ドラマや演劇のほか。彼女の仕事の多くの言語に翻訳されているし、重要な賞を受けた。
ジーナはないより多くの児童文学を書くことにした 2000 年に p. をジャークします。
以来、彼女はミュンヘンで心理的な実際にそれらを求めるお客様に捧げられるです。また大人の読者のためのテキストを作成します。"がされている人や動物と海外のアラビア人および他の国の多くの出会い。
あなたの私の懸念について私に尋ねた。別の外国ネスのであることの受諾は重要な主に私。私の話は、しばしば行動社会の差益で生きているからです。"
「あなたは幸せな人ですか?」
「子供私に尋ねます。

http://www.microsofttranslator.com/bv.aspx?ref=SERP&br=ro&mkt=ja-JP&dl=ja&lp=DE_JA&a=http%3a%2f%2fwww.gina-ruck-pauquet.de%2findex.htm

 何となくわかるのが面白いけれど、どうして名前が「ジーナ・ジャーク」になっちゃうんだろう?
 お写真、同じページから拝借します。

 

***

 あった、ジーナ・ルック=パオケ!
 独文学者の小澤俊夫氏が訳しておられる。小澤昔ばなし研究所の設立者、「九条の会」の呼びかけ人でもある、あの小澤先生だ。
 『小さな魔法つかい』 ポプラ社 1982.7
 『小さな郵便屋さん』 ポプラ社 1983.4

 また楽しみができた。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%BF%8A%E5%A4%AB

何遵約法 韓弊煩刑 ~ 千字文 074

2014-07-15 08:23:36 | 日記
2014年7月15日(火)
○ 何遵約法 韓弊煩刑

 何(カ)は(漢・高祖の)約法に遵(したが)い、
 韓(韓非子)は煩刑に弊(おとろ)えたり。

 漢の高祖は秦の失敗に学び、法(刑罰)を三条に簡略化した。すなわち、殺人、傷害、窃盗である。
 後に漢の丞相になった蕭何(ショウカ)は、高祖の精神を遵守して政治を行った。以上、前段。

 後段について、李注は韓非子が自ら秦の大臣となり、始皇帝の意を体して厳罰主義を実施したかのように書くが、これは史実に反する。始皇帝が韓非子と法家の思想を喜んだということだろうが、ともかくその路線が失敗に帰した。
 秦の法は煩雑なうえ、あばらの筋を抜くだの釜ゆでだのの極刑が多く、おまけに始皇帝がしばしば恣意的に刑を課したため、「赭衣(シャイ、囚人服)は道にあふれ、監獄は林立し、天下が大いに乱れた」。

 何は約法に遵い、韓は煩刑に弊えたり。

 リズムがいいね。
 煩瑣は、それ自体ひとつの悪である。それに勝る必要性がない限り正当化されない。

やけぼっくいと関先生

2014-07-15 07:19:26 | 日記
2014年7月15日(火)

 「地獄の釜の蓋」だけではない、「焼けぼっくい」が通じないと勝沼さんのコメント。
 もうだいぶ前だが、老人ホームを回診中かつてイギリス人の船長さんと結婚していた女性の居室で若い頃の写真を拝見し、「バタ臭い美人だねえ」と言ったら、「は?何ですか?」と相談員に聞き返された。
 麻酔科や救急で使う意識障害の簡易スケールに、本邦で考案された「三々九度法」というのがあるんだが、10年ほど前の桜美林の学部でも院でも「三々九度」が何だかわかるものは、若い学生にはほぼ皆無だった。
 これも数年前から、正月の準備でお屠蘇を作りたいと思っても、薬局でも食料品店でも店員が「屠蘇(散)」という言葉を知らない。
 等々

 いたずらに嘆こうとは思わない、引き換えに現れる若者言葉には、しばしば侮るべからざるものがある。ただ、これまで使われてきた言葉や物を捨てるのももったいない話だ。
 古い小じゃれた言葉を知っている者が大いに使ったらいい。

***

 嬉しくも、存じあげない方からコメントをいただいた。再記。

>『懐かしいです』 by 「うさこ」さん

> 私も愛媛県出身で、石丸さんのひとつ先輩になります。理系でしたが。

> 関楠生先生には、駒場の教養課程でドイツ語を教わりました。
> テキストは、シャ. ミッソー『影をなくした男』だったような。
> 「ゲーテ」の正しい読み方、「喉彦のR」など、強烈な思い出があります。

> なんとなく面白そうな、ちょっと変わった感じの先生だとは思っていましたが、
> 今になってみれば、あまり熱心に勉強しなかったのが悔やまれます。
> これから、先生の翻訳を読んでみようと思います。

> あれほどの大先生ですが、新聞にほんの小さくしか載っていなくて、残念に感じていました。こちらのブログで、先生を知る方とお会いできて、本当に良かったです。
有難うございました。
> どうぞ、これからもお元気でご活躍くださいませ。

 こちらこそ、ありがとうございます。懐かしい故人の思い出を共有できることは大きな幸せです。
『影をなくした男』は、岩波文庫に翻訳が入っているのですね、関先生訳ではありませんが。表題からして面白そう、近々ぜひ読んでみます・・・さっそく Amazon で注文してしまいました!

 Adelbert von Chamisso こと Louis Charles Adélaïde de Chamisso de Boncourt(1781‐1838)。 フランス出身のドイツの詩人で植物学者。現在ではドイツ語で文学作品を残したロマン派文学者として著名。(Wiki)

 私たちの方は、前期にドイツ語の基礎を一通り教わり、後期には"Der kleine Schornsteinfeger"『小さな煙突掃除屋さん』という素敵な現代童話を読んだのですが、残念ながらこの作品や著者の情報がインターネットで出てきません。1988年に関先生御自身が翻訳を出されたようですけれど、これも絶版と思われます。
 私は物を捨てられない性分なので、探せばきっと出てくるでしょう。そしたらまたブログに載せますので、うさこさん、また御覧になってください。

***

 うさこさんは「ゲーテ」の正しい読み方や「喉彦のR」を思い出に挙げられる。僕はこれらについての記憶がなく(ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い、という古い川柳が思い出される)、このあたりも面白い。
 ついでに entgegengegangen と並んで忘れられない関先生の爆笑ネタを書いておきたいのだが、とっても上品という話ではないので、うさこさんが二度と訪問してくださらないのではないかと少々心配。

 関先生がドイツ滞在中のこと、友人のA氏が遊びに来た。ドイツ語は皆目わからないA氏を連れてレストランへ出かけたが、先生は早々にトイレに立っていかれた。

 そこへウェイターがやって来て、
"schon bestellt?"

 英語に逐語変換すれば "already ordered?" 「注文はお済みですか?」ということだが、音を転記すると
 「ション・ベシュテルト?」という具合に聞こえる。
 A氏、喜んで
 「そうそう、よくわかったね、あんた日本語できるの?」