散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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庶幾中庸 勞謙謹敕 ~ 『千字文』 086

2014-07-31 21:43:43 | 日記
2014年7月31日(木)
「ブログ、もう少し易しく書いてください」
 面と向かって云われた。
「字がね、難しくて読めないんです」

 注文つけられてフユカイ?
 とんでもない、この人がこのブログを読んでくれてることが地味に嬉しくて。
 注文、どんどんつけてください。ただ僕にも事情があるから、注文に応じられるかどうかは分からないけれどね。

 それにしても、こちらが何の情報提供したわけでもないのに、見つけて訪問して、読んでくれてるなんて・・・
 ありがとうございます。

***
 『千字文』は大目に見てほしい。どうやら3分の2までたどり着いたところで、始めたからには終わりまでいかないと、気味が悪いですから。
 で、その86。(番号は僕が整理のために勝手につけてるので、原文にはない。しめて1,000字を8字ずつ追っていくから全125回、その86まで来たというわけだ。)

○ 庶幾中庸 勞謙謹勅
庶幾(ショキ)は「そうありたいと希望する」こと。「中庸を庶幾する」。
後段は「謙(そしり)を労(いたわ)り、勅(ただしき)を謹(つつし)む」だそうだ。
教わらなければ読めたもんじゃない。

「中庸(の正しい道に到達すること)を願い、謙虚であるよう努め、謹んで身を正しくする」
 意味は読んで字の通りだ。

 中庸の徳は、たとえばストアの不動心などと同じものか、違うものか。何かしら似たところはあるのだろう。しかし、中庸なんてそんなに大事だろうか?東西の賢人が、この種のことをそんなに称揚するのはどういうわけだろう?
 むろん、何も感じず考えず、何の誘惑も受けない呑気さとは違うことなのだろう。東西の広がり、南北の両極を知ったうえでの中道ではあろうが、真理がいっぽうの極にある可能性だってないわけではない。バランスのとれた中心に真理があるとは、ありそうな話だが必然性はあるまい。
 むしろそれは「真理」よりも「心理」に関わることで(この言葉遊びは面白い)、「不決断」や「リスクを冒さない」こと、あるいは精神の老化や鈍麻の別名ではないのか。

 ずっとそんなふうに思って注意を払わなかったけれど、案外そうでもないのかもしれない。こっちが年をとってきたのかな、少なくともそれが「判断回避」や「リスク回避」ではないことについて、裏を取りたい気持ちがする。
 何言ってるんだかわからなくなってきた。
 寝よう。



 

佐世保と釜石/命の教育

2014-07-31 06:16:24 | 日記
2014年7月31日(木)
 CATで久しぶりに勝沼さんと会い、佐世保の事件のことなど話題になった。
 「いろいろなことが書かれるのでしょうし、5年後・10年後にそれを読むことはきっと意味があると思うんですが、いま発信されていることをとりあえず知ろうとは思いません。」
 そういう趣旨のことを彼が言う。同感である。
 現にネットや新聞に出てくる論評の多くが、実質的には意味のあることを何も言っていない。
 それも仕方ないだろうと同情する。何か言える段階ではないが、何も言わないわけにもいかない、そういう立場の人々が多く存在するものだ。ただ、中には自分が良いことを言っているつもりになっているらしく、そのため無益を超えて有害の域に達しているものもあるようだ。
 その地域で行われてきた「命の教育」に懐疑を投げかける類のコメントは、さしずめそれにあたるだろうと思われる。
 一般的な予防では阻止できない特殊個別的なケースというものがあるし、この件はそういう性質が強いだろうと推測する。あまりにも極端な一事例をもって一般標準を疑う必要はないし、それは叡智とは反対のものだ。

 ただ、「命の教育」と総称される営みそのものの問題点は、本件とは別個によく考えてみないといけない。
 それで勝沼さんが思い出したことがあった。

 釜石では震災の数年前から子どもに対する防災教育を推進し、その甲斐あって子どもたちの津波被害を最少に抑えることができた。「家に帰るのではなく、家族を探すのではなく、ともかく山の方向へ逃げること」が励行され、子どもたちが特有の素直さで教えを墨守したのが秘訣だったというのだが、そこに思わぬ副産物があった。防災教育を通して、子どもたちが自分らの命の尊さを知ったというのである。
 そんなにまでして逃げなければいけないのはなぜか、「ともかく逃げろ」と大人たちがこんなに熱っぽく指導するのはなぜか。自分たちはどうしても死んではならないからだ。自分たちの命はそんなにもかけがえなく尊いからだ。
 防災指導が結果的に最良の命の尊厳教育になった。そしてそのことが、子どもを通して大人たちに波及していく。

 命の尊さを伝えようとして、「命は尊い」という命題を観念的に繰り返すのは、実は賢明なやり方とはいえない。繰り返されるお題目は言葉として記憶されるかもしれないが、首から下には滲みていかず、結果的に命題の価値が下落し空疎になりかねない。
 結果として命の尊さが伝わるような、具体的で実践的な学びが良い。釜石の防災教育は、まさにその効果をもったというのである。

 またひとつ、良いことを教わった。