散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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朝とりあえず/晩とりとめもなく

2014-07-30 23:26:41 | 日記
2014年7月30日(水)
 「漱石の主要な作品中、主人公が精神的な変調をかかえて「いない」のは、『三四郎』と『明暗』ぐらいではないか」と筑波大の高橋正雄教授。そういえばそうか・・・
 漱石自身の病跡についてもいろいろ言われているが、鬱病圏とする見方が優勢だったと記憶する。不調時のことを、鏡子夫人は「また夏目の脳が悪くなりまして」などと語り残しているのが不謹慎にも可笑しかったのだが、これ実は含蓄に富んでいる。
 「心が折れた」などというよりも、「脳が悪くなった」と考えた方がよっぽどマシだ。「こころ」という言葉は矮小化せずに使いたい。

 愛媛大会決勝は、小松高校 10-1 松山東。先行した松山東が後半追いつかれ、8回に大量失点。今治西や済美のいるきついブロックを勝ち上がって、特に投手らは疲労が溜っていただろう。力尽きたのだね、お疲れさま。
 小松は1907年創立の県立高、甲子園初出場である。健闘を祈る。

 庶幾中庸 勞謙謹敕
 続きは後で。今日は早く出て、某SCで試験監督にあたる。 

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 気がつけば、去年のこの日も試験監督だったのだ。
 今日はその後、めったに乗らない常磐線・武蔵野線を乗り継いで放送大学へ行き、TV教材収録の打ち合わせ。晩はCATの会合で ~ といっても3人だけだが ~ 高田馬場を回って帰った。
 しめて13,181歩。けっこう歩くものだ。

 一年前のブログが今夜は妙に懐かしいので、転記してしまう。反則かな、やっぱり。

2013年7月30日(火)

ラジオ体操は夏季巡回中で、今朝は鳥取県八頭町から。

「八頭(やず)」の名称はヤマタノオロチを連想させるが、怪物の化身とされる斐伊川は島根県出雲市~斐川町あたりを流れていて、八頭はそこから140kmほども東にあたる。

講師が八頭町を紹介するのに、「縁結びで知られる因幡の白ウサギの舞台」云々と言ったが、例のウサギの話と「縁結び」は関係あるかしらん?出雲大社は、それこそ140km西方だ。

細かいことに目をつぶれば、出雲・因幡は一体として神話の舞台を為すともいえる。
天孫族に覇権を譲った、国つ神々の聖地である。
先日T君がこの地を奥さんと旅行し、大いに感銘を受けて帰ってきた。

小学校3年から6年にかけて松江で過ごしたので、僕にとっても想い出深い土地。
ただ、単純に懐かしいとばかりも言えない。

感謝ということは、好意とか好感とは次元の違うものらしい。
感謝できるかどうかが、天国と地獄の分岐点であることを痛感する。
おおげさなようだけれど、本当に。

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今日は何の日?

1978年のこの日、沖縄で車両の左側通行が始まった。
友人に誘われ、三人連れで沖縄を旅行したのはその前年。確かに車は道路の右側を走っていた。
一夜で切り替えるのは大変だっただろう。

僕にとって、沖縄にまつわる最初の生活記憶は高校野球だ。

1968年、夏の甲子園が第50回の節目を記念して一県一代表で開催された。
(当時は代表枠がずっと少なく、たとえば北四国と南四国からそれぞれ一校という具合だった。)
あわせて、まだ米施政下にあった沖縄からも特に代表が招かれた。
出場したのは興南高校、優勝した興国高校(大阪)に準決勝で大敗したものの、ベスト4まで勝ち上がる活躍で声援を集めた。
ニライ・カナイの神々も、児らの姿を嘉したもうたことだろう。

東北勢が8強に2校残る健闘ぶりや、決勝で0-1と惜敗した静岡商業の一年生エース新浦など、話題の多い大会だった。
その翌年、松山商業と三沢高校が球史に残る死闘を演じる。

沖縄の復帰は1972年、僕らが高校へ進学した年だった。

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放送大学は、ただいま単位認定試験(いわゆる期末試験)の真っ最中。
今日は僕も、東京足立学習センターで監督をお手伝い。

同センターでは、本部教員には障害のある学生の別室受験監督を割り当てる。
毎学期この作業が楽しみでもあり、せつなくもある。

お察しあれ