散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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心・腹・気/知足の蹲(つくばい)

2014-07-22 22:06:09 | 日記
2014年7月22日(火)
 ちょっと前まで通じた話した通じないというのは、歯がゆいようではあるけれど、面接授業や小講演の際に話のタネにできて助かるのでもある。

 下の絵、読めますか?
 Mさん宛に解説すると、左は丸い輪っかの中に「心」の字、真中は「腹」の字が横倒しになり、右は縦長に伸びた「気」の字。これで、
 「心はまる~く円満に、腹は立てずに気は長く」
 と読むのだ。
 精神衛生の秘訣みたいなもので、小さい頃大人たちから何度か聞かされてきたと記憶する。
 「こういうの教わったよね?」と、ときどき周囲と確認し合って安心するのが、ある時から通じなくなった。やれ恐ろしや、屋根の上でおばあさんに会った煙突掃除屋さんではないけれど、ひょっとして僕の妄想?
 
(図は自作)

 京都龍安寺の「知足のつくばい」になると、思想も言葉遊びもぐっと洗練されている。
 中央の「口」を共通の部首として、0時方向から時計回りに「吾唯足知」と読めるわけだ。
 「吾ただ足るを知れり」
 スペイン語の諺でほとんど文字通り同じものを見たことがある。文としては「幸せは足るを知ることのうちにある」という作りになっていた。
 たぶん似たことがあらゆる文化圏で言われているだろう。
 超文化的な真理であるらしい。

 
(http://happy-1life.com/waretada.htm より拝借)

松井須磨子と白蓮事件 ~ 大正という時代

2014-07-22 08:40:23 | 日記
2014年7月22日(火)
 僕は朝ドラは見ないんだが、『花子とアン』が至るところで話題になるうえ、「白蓮事件」の文字がそこここから飛び込んでくるので、ふと思い立って今朝は見てみた。白蓮の縁切り状が大阪朝日(!)紙上に掲載され、これに対して伊藤伝衛門が反論を載せる載せないで、混乱真っ只中である。
 大きなところは省略して、トリビアルな連想を二つ三つ。

***
 今朝の回から、まっさきに連想したのが松井須磨子のことだった。いわゆる白蓮事件は大正10(1921)年秋の出来事。いっぽう、スペイン風邪で亡くなった島村抱月の後を追い、松井須磨子が縊死したのが大正8(1919)年正月だから、2年半ほどをはさんだほぼ同時期の出来事である。
 松井須磨子は抱月と不倫の恋中で、抱月の墓に共に収められることを望んだけれど、当然ながら島村家が拒絶した。当時、物議をかもしたらしい。
 めったに見ない朝ドラなのに、ずいぶん前のことを覚えているというのが、
 『雲のじゅうたん』
 である。
 1976年上半期というから、40年近く経ったのだ。本邦初の(?)女性飛行家をめざして奮闘するヒロイン真琴の物語。主役を演じた浅茅陽子の出世作だが、父親役の中条静夫、先輩飛行士の高松英郎、夫が竜崎勝、息子(後に特攻隊員として戦没する)が志垣太郎、女中奉公していた時の主夫妻が船越英二に馬渕晴子、ナレーションの田中絹代に至るまで、実に錚々たる脇役陣で固めたものだ。
 父親は会津だったか盛岡だったか、ともかく戊辰戦争の賊軍方の出身で、真琴に惚れ込んで求婚する相手は同じ東北でも官軍方の出身。「父は生まれを聞いただけで、結婚を許すどころかあなたを絞め殺しますよ」と呆れ顔のヒロインの思惑に反し、「それはそれ、これはこれ」と父親があっさり承諾するところなど、いくつか印象に残る場面がある。
 その一コマ、松井須磨子の事件が女学校で話題になる。
 「お墓にも入れてあげないなんてかわいそう」と同情論を言い募る級友に、
 「そったらこと、許されるわけねえべな、島村家の人たちの気持ちにもなってみ!」
と、東北弁でヒロインが一蹴する。主張の当否はさておき、当時の社会事情を活写する名脚本だったと今にして思うのだ。それが白蓮事件の2年半前である。
 両者並べてみると、家父長制下の男女道徳に自由恋愛の風が吹きこみ始めている気配が、良く伝わってくる。大正デモクラシーとは政治思想限定の話ではない、第一次大戦後のわが社会に「現代」への主体的な展開の兆しが見えた、はかなくも貴重な時代だった。
***
 このあたりの事情を理解するには、旧民法における家族制度の知識が要るんだが、それって大丈夫かな。
 「昔の人は考えが古かった」で済ましたのでは、まるでポイントを外している。
 当時、社会活動の主体としての「個人」は成立していなかった。「個人」は「家」との関係においてのみ存在したのだ。「家」を主宰するのは家長(戸主)であり、その家の子どもたちのうちの跡取り(通常は長男)が、権利財産も義務負債もすべて一括相続し管理する。人が結婚しようと思えば家長の許可が要ったのだ。そうしたシステムが分かってないと、白蓮の果敢も伊藤伝衛門の憤りも遠く理解が及ばない。
 そしてこのような「家」の制度が、精神保健福祉上の「精神病者監護法」と悪名高い私宅監置(=座敷牢)に対応する。
 敗戦と占領軍改革によってでなく、平和時の地道な自主努力によってこれらを克服できたのだったら、どんなに素晴らしかったことだろう。
***
 伊藤伝衛門は「筑豊の男」を代表してもいるのだが、これを演じる俳優さん(名前は知らない)が、ちょっと雰囲気が出ていてよい。
 博多あたりの男性に特徴的な顔立ちというのがある(と僕は思う)。囲碁ファンなら、三村智保(みむら・ともやす)九段を考えてもらうと話が早い。おでこが張っているわりに顔の下半分は細め、口と唇は小さくてやや引っ込んでいる。ぐっと唇を結ぶと、いかにも感情は飲み込んでガマンガマン、不言実行、結果を出さねばといった気負いが似合って見える。
 ちょうど昨日放送の「シリーズ棋士に聞く」は三村九段だった。2003年にはNHK杯で優勝、直後のテレビアジア杯で準優勝した実力者で、好きな棋士の一人である。
 

洞庭湖など ~ 千字文 079-081

2014-07-22 07:18:34 | 日記
2014年7月22日(火)

三つまとめて行ってしまおう。同工異曲といった感じなので。

 雁門紫塞 雞田赤城  
 昆池碣石 鉅野洞庭  
 曠遠緜邈 巖岫杳冥

前二段は地名の連続、雁門(ガンモン)は山西省北部の山、紫塞(シサイ)はこの山にあった城塞とする説と、万里の長城と解する説があるという。
雞田(ケイデン)は冀(キ)州にあった沢の名とする説と、突厥(トッケツ)の住む辺境地帯とする説がある。
赤城(セキセイ)は川とも城とも、あるいは山の名とも言われて本義が知れないらしい。

昆池(コンチ)は漢の武帝が長安に造らせた池の名。
碣石(ケッセキ)は山の名だが詳細不明。李注によれば、始皇帝が頂上から東海に蓬莱山を望み、不死の仙薬を求めて徐福を派遣するに至るのがこの山だ。徐福一行が日本に着いたとするのも、ファンタジーの世界では「あり」だから、碣石山ぐらいは覚えておいていいかもしれない。

鉅野(キョヤ)は山東省の北にあった大きな沼地。
洞庭(ドウテイ)、ようやく知っている地名が出てきた。後述。

鉅野洞庭を意味上の主語に受け、
曠遠(コウエン)にして緜邈(メンバク)は、ともに広く遠く遥かなさま。
巖岫(ガンシュウ)すなわち山の洞穴は、杳冥(ヨウメイ)すなわち薄暗くはっきりしない。

***

 洞庭湖に関する Wikipedia の記載はなかなか読ませる。

> 洞庭湖(どうていこ、拼音: Dòngtíng hú ドンティンフー)は、中華人民共和国湖南省北東部にある淡水湖。中国の淡水湖としては鄱陽湖に次いで2番目に大きい。全体的に浅く、長江と連なっていて、その大量の水の受け皿となっており、季節ごとにその大きさが変わる。湖北省と湖南省はこの湖の北と南にあることからその名が付いた。

 通常の面積は2,800平方キロほどで、琵琶湖の4倍程度だが、増水期には20,000平方キロにまで広がるという。かつては中国最大の淡水湖だったが、近年は農地利用の進捗もあって湖面が小さくなっているらしい。

 昔聞洞庭水 今上岳陽楼  昔聞く洞庭の水 今上る岳陽楼
 呉楚東南坼 乾坤日夜浮  呉楚東南にさけ 乾坤日夜浮かぶ
 親朋無一字 老病有弧舟  親朋一字無く 老病弧舟有り
 戎馬關山北 憑軒涕泗流  戎馬關山の北 軒によれば涕泗流る

 杜甫らしい湿っぽさを敬遠しつつも、起承の与える風景画の雄大さが素晴らしく、「呉楚東南坼 乾坤日夜浮」は今も口の端によく浮かんでくる。
 行ってみたいなあ。

  
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E5%BA%AD%E6%B9%96