散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

読書メモ 032: 『敦煌』

2014-07-01 05:46:29 | 日記
2014年7月1日(火)

 4月30日の『イボタの虫』以来・・・?
 いくらなんでも、そんなはずないな、そうか、030が『ブッダ』で、031が『百年の孤独』なのだ。
 これらは簡単にメモも書けないので、後のものを先にしてしまおう。

 田舎の家で井上靖『敦煌』の文庫本を見つけた。誰が買ったものか判然としない。
 表紙にキンキラ冠の顔写真が塊で載ってるのは、映画化された際の主役級の面々だ。原作は昭和34(1959)年に書かれ、映画化は昭和63(1988)年。珍しく公開早々に知人と見たのと、当時の私的な事情などあって、よく覚えている。
 日本アカデミー賞で最優秀作品賞・監督賞を受賞した作品なのに、当家での評価がパッとしないのは、大金かけたロケが凄いばかりで演技がいただけないというのが理由だ。
 恥ずかしながら当時僕は原作を読んでおらず、なので映画を見た後にそそくさと文庫本を買ったのかもしれないが、とんと仔細を思い出せない。初めてか久々か、ともかく読んでみまして、ここは映画と違う(=映画化の際に翻案された)部分などを書き留めておく。

***

 冒頭で趙行徳が科挙に挑むところ、映画では「西夏対策」の出題に対して主人公に準備がなく、答えられずに落第する。原作では、主人公はそれなりの持論を用意して殿試に臨むのだが、あろうことか順番待ちの間に居眠りして、あっけなく好機を掴み損ねてしまう。夢の中で、堂々と自説を開陳しているのが面白い。試験官たちの意に適うかどうかなどは介意せず、趙は昂ぶりつつ論陣を張る。それほどの意志と昂揚が、不覚の午睡によって水の泡になるという構図の面白さ。
 『枕中記』、いわゆる邯鄲の夢枕がヒントになっているだろうか。

 ついで、失意の主人公の心を西夏に向けることになる、開封市街での女との出会い。
 映画では三田佳子扮するコテコテ着飾った女が、追ってきた男の前で自分の頬を切る。顔を傷物にすることで、身を売らされまいとするわけだが、ちょっと説得力が薄いかな。かえって値が上がったかもしれないよ、こういう世界では。
 原作は奇怪にして凄絶、裸に向かれた女が路傍の板の上に横たわって据えられ、それを前に男が声を上げる。なるほど、このまま映画化はしづらい場面。
 以下、抜粋。

 「こいつは性悪女だ。肉を切り売りしてやる。欲しければどこでも買え。耳でも、鼻でも、乳でも、股でも、どこでも売ってやる。値は豚の肉と同じだ。」
 「女は承知か。」
 男が返事をする前に、女自身が口を動かした。
 「承知だ。」
 狂言ではないことが、すぐにわかる。
 「情けない奴らばかりだ、いったい何時間こうしているんだ、買えねえのなら買えるようにしてやるぞ、指はどうだ、指は」
 瞬間男が刃物を閃かせたと思うと、板を打つ音が響き・・・女の左手の指が二本、その先端の一部を失くしていた。
 「よし、買う」
 趙行徳は思わず叫んだ。
 「全部買う」
 「買うか」
 男は念を押した。するとその時、血を滴らせた手を板について女がむっくりと半身を起こしてきた。そして彼女は行徳の方に血走った顔を向けると、
 「おあいにくだが、みんなは売らないよ。西夏の女を見損なうな。買うならバラバラにして買っていけ!」
 行徳は女の言葉が何を意味しているかを知るのに多少の時間を要した。

 著者の創作か、中国古典からの借用か、ともかくこの場面は凄まじい。女の圧倒的な存在感が、それまで観念に過ぎなかった趙行徳の「西夏」を実体に変える。この女は、後に趙が運命的な邂逅を遂げる謎の王女のプロトタイプでもあるのだが、王女は実は西夏人ではなく西夏に滅ぼされた回鶻(ウィグル)王族の者だ。冒頭の「売肉」の場面では、切り売りされる女が西夏人、男が回鶻人だから、関係が転倒している。さらに、趙行徳が思い描いた堅忍にして精強の蛮族の闘魂は、西夏の勃興に伴って早くも劣化しはじめていることが後に伺われる。
 それはさておき、遍歴の中を生き続ける趙の意志は次第に spiritual なものに結晶し、「甘州小娘子」への回向の願いが大きく用いられて、8万巻の仏典を敦煌郊外の石窟に避難させる役割を果たす。史実の縁起に創作の足場を見出す、著者会心の構想と思われる。
 芥子粒のような個人の営みが、宇宙の運行と連動感応して、とてつもない働きをすることがある。ロマンとはそのことを言うのか。欧州語で roman という時に考えられているのは、そのことだろうか。
 少なくとも井上靖という作家には、一貫してこの種の roman を追うところがあった。
 『夏草冬濤』はそういった姿勢が立ち上がっていく前の揺籃期を記録して、豊かでおおらかな eine Kindheit になっている。

***

 「そうだ。私は汝に愛情を持っていたのだ。恐らく汝の夫となる人の生れ代わりなのであろう。そうなるように運命づけられている。そうでなくては、自分は宋の都から、はるばるこんなところへやって来ることはなかっただろう」(P.66)

 回鶻の女のことを思い出すたびに、行徳はある安定した静謐感が自分の五体を充たすのを感じた。それはもはや故人に対する愛情でもなく、そうした人間的な感情を濾過した純粋なある完全なものへの讃歌のようなものであった。
(P.108)

 行徳は巻物から手を離した時、あたかも大海の中へ物を落とし入れたような心もとなさを覚えた。と同時に、また、何か長い間自分の躰についていて離れなかったものが、ふいに自分の躰から離れ、もっと安全な場所へ置かれたといった、ある安定した思いもあった。
(P222)

 人生の歩みにつれ、意味は何度となく書き換えられていく。
 それが完成に向かう書き換えであるような人生は、祝福されている。