2014年7月26日(土)
『退屈な話』の原文は、A4で48枚ほどになる。
ロシア語は今のところ暗号文と大差ないぐらい不可解だが、ただ眺めているだけでもわくわくする。
地の文に会話の挟まるところを目印に、気になる箇所をさっそく拾い出してみる。
変な間違いをすれば、T君がチェックしてくれるだろうから気が楽だ。
***
-- Ты бы, говорю, занялась чем-нибудь.
-- Чем? Женшияа может быть только простой работницей или актрисой.
работницей、これが「雑役のおばさん」「女労働者」「日雇い」などと訳された問題の言葉である。
辞書によれば、раб(ラプ)には「奴隷・被搾取者」の意味があり、работа(ラボタ)は「労働」である。カレル・チャペックの造語「ロボット」の語源でもあるものだ。
работать は動詞で「動く」「活動する」「働く」
работник は男性名詞で「働き手」英語なら worker、その女性形・造格が работницейである。
だから「女労働者」というのは直訳として正しい。問題は含意である。
チェーホフの時代のロシアで、女性の worker がどんなものであったか。カーチャがその言葉にどんなイメージを投影しているか、その読みが翻訳者の仕事になる。そのような一語の選択は、一時代一文化全体の理解に関わる難事なのだ。苦労が察せられる。
とはいうものの、
「女労働者」はこの作業の放棄に他ならない。これで済むなら翻訳家は要らない。
「日雇い」って何だ?女性の日雇いにどんなイメージを重ねればいい?そもそも原語は単に「女性の worker」を表す言葉である。労働は肉体労働と考えていいだろうが、そこに日々雇用という意味は含まれない。これは乱暴というものだ。
「雑役のおばさん」
思い切った意訳である。これで良いかどうかは議論の余地があるけれど、これだけが真率に「翻訳」を試みている。「翻訳は裏切り」と承知のうえ、覚悟の踏み込みである。
私案だけれど、これを「女工」としたらどうだろうか。
『女工哀史』の日本とは異なる『退屈な話』の背景世界ではあるけれど、「女工」すなわち「女性工場労働者」の働きの場は、絹織物や機械製品の生産に限られたものではなかった。
カルメンが掴み合いの大喧嘩をやらかしたタバコ工場、ムシュー・マドレーヌことジャン・バルジャンが経営しコゼットの母ファンチーヌが勤めた工場、そこで働くのが女工である。19世紀のヨーロッパでは至るところにそういう女性の働きの場が出現しつつあった。ロシア社会にも、当然そのイメージなり萌芽なりがあったはずである。
むろん、カーチャの出自と所属階級を考えれば、彼女が「女工」として汗水たらして働くことなど事実上あり得ない。あり得ない選択肢しかないことをカーチャは主張する。あとは「女優」だが、それができない理由は物語の中で語られている。
「女にできる仕事なんて、女工か女優ぐらいのものよ。」
「それがどうした?女工になれないのなら、女優になりなさい。」
***
-- Николай Степаныч, ведь я отрицательное явление? Да?
「ニコライ・ステパーヌイチ、私って否定的現象ね、そうでしょ?」
「ニコライ・ステパーヌイチ、私はよくない女?そうでしょ?」
отрицательное явление
отрицательное は「否定的・消極的」の意で、英語の「negative ネガティヴ」とよく重なるようだ。
転じてこれを「悪い」と訳すこともできるけれど、「悪い」とか「性悪」とかを表す言葉は多々あるところへ、作者が他なぬこの語を起用した意図が重要だ。
явление はなおのことで、「現象」「できごと」「出現」などと訳されるものを「女」とするのは、文脈次第であり得ることとしても、ここでわざわざそうする意味がない。
生硬で学術用語めいた、即物的で温かみのない表現が、生身の人間であるよりも一個の現象、ないしできごと event に成り果てているカーチャの自己認識を辛辣に言い当てる。「否定的現象」とはよく言ったもので、それをそのまま訳出したのもファインプレイだ。
「よくない女」では、全体が別の小説になってしまう。
原文を見て、深く得心した。
『退屈な話』の原文は、A4で48枚ほどになる。
ロシア語は今のところ暗号文と大差ないぐらい不可解だが、ただ眺めているだけでもわくわくする。
地の文に会話の挟まるところを目印に、気になる箇所をさっそく拾い出してみる。
変な間違いをすれば、T君がチェックしてくれるだろうから気が楽だ。
***
-- Ты бы, говорю, занялась чем-нибудь.
-- Чем? Женшияа может быть только простой работницей или актрисой.
работницей、これが「雑役のおばさん」「女労働者」「日雇い」などと訳された問題の言葉である。
辞書によれば、раб(ラプ)には「奴隷・被搾取者」の意味があり、работа(ラボタ)は「労働」である。カレル・チャペックの造語「ロボット」の語源でもあるものだ。
работать は動詞で「動く」「活動する」「働く」
работник は男性名詞で「働き手」英語なら worker、その女性形・造格が работницейである。
だから「女労働者」というのは直訳として正しい。問題は含意である。
チェーホフの時代のロシアで、女性の worker がどんなものであったか。カーチャがその言葉にどんなイメージを投影しているか、その読みが翻訳者の仕事になる。そのような一語の選択は、一時代一文化全体の理解に関わる難事なのだ。苦労が察せられる。
とはいうものの、
「女労働者」はこの作業の放棄に他ならない。これで済むなら翻訳家は要らない。
「日雇い」って何だ?女性の日雇いにどんなイメージを重ねればいい?そもそも原語は単に「女性の worker」を表す言葉である。労働は肉体労働と考えていいだろうが、そこに日々雇用という意味は含まれない。これは乱暴というものだ。
「雑役のおばさん」
思い切った意訳である。これで良いかどうかは議論の余地があるけれど、これだけが真率に「翻訳」を試みている。「翻訳は裏切り」と承知のうえ、覚悟の踏み込みである。
私案だけれど、これを「女工」としたらどうだろうか。
『女工哀史』の日本とは異なる『退屈な話』の背景世界ではあるけれど、「女工」すなわち「女性工場労働者」の働きの場は、絹織物や機械製品の生産に限られたものではなかった。
カルメンが掴み合いの大喧嘩をやらかしたタバコ工場、ムシュー・マドレーヌことジャン・バルジャンが経営しコゼットの母ファンチーヌが勤めた工場、そこで働くのが女工である。19世紀のヨーロッパでは至るところにそういう女性の働きの場が出現しつつあった。ロシア社会にも、当然そのイメージなり萌芽なりがあったはずである。
むろん、カーチャの出自と所属階級を考えれば、彼女が「女工」として汗水たらして働くことなど事実上あり得ない。あり得ない選択肢しかないことをカーチャは主張する。あとは「女優」だが、それができない理由は物語の中で語られている。
「女にできる仕事なんて、女工か女優ぐらいのものよ。」
「それがどうした?女工になれないのなら、女優になりなさい。」
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-- Николай Степаныч, ведь я отрицательное явление? Да?
「ニコライ・ステパーヌイチ、私って否定的現象ね、そうでしょ?」
「ニコライ・ステパーヌイチ、私はよくない女?そうでしょ?」
отрицательное явление
отрицательное は「否定的・消極的」の意で、英語の「negative ネガティヴ」とよく重なるようだ。
転じてこれを「悪い」と訳すこともできるけれど、「悪い」とか「性悪」とかを表す言葉は多々あるところへ、作者が他なぬこの語を起用した意図が重要だ。
явление はなおのことで、「現象」「できごと」「出現」などと訳されるものを「女」とするのは、文脈次第であり得ることとしても、ここでわざわざそうする意味がない。
生硬で学術用語めいた、即物的で温かみのない表現が、生身の人間であるよりも一個の現象、ないしできごと event に成り果てているカーチャの自己認識を辛辣に言い当てる。「否定的現象」とはよく言ったもので、それをそのまま訳出したのもファインプレイだ。
「よくない女」では、全体が別の小説になってしまう。
原文を見て、深く得心した。