2024年1月3日(水)
リンカーンだのロックフェラーだの、海の向こうの昔のことをあげつらっている間に、此岸(いま・ここ)がたいへんな事態に陥った。2024/令和6年の正月は歴史に残ることになる。
元日の夕方、和やかにくつろぐ能登の人々と家庭を震度7の激震が直撃した。今朝までに65人の死亡が確認され、仰向けになった家屋や崩落した道路、津波に流された自動車などが既視の恐怖を活性化する。
二日の夕には、被災地へ救助作業に向かおうとする海上保安庁の飛行機と、着陸するJALの旅客機が衝突し、後者が炎上した。旅客機の乗客367人、乗員12人は全員待避したが、海上保安庁機の搭乗員6人中5人が死亡し、機外に逃れた1人も重傷で病院に運ばれた。
震災といい、救助にあたる人員の殉難といい、自分自身に起きても不思議のないことである。この人々が自分の代わりに難を負ってくれたという「代理受苦」の発想は、もっと意識されて良い。それで何が変わるわけでないとしても、他人事でないというのは要するにそういうことである。僕は一つの習慣を今日から止めることにした。自慢になどなりはしない、ただ自身への戒めとしてである。
戒めといえば、一つ気になったことがある。被災者へのインタビューがTVで報道される中に、御両親を亡くした人、二人の娘さんを同時に喪った人などの、顔も姿も間近で丸映しにするものがあった。一夜明けて現場に戻ってきたこれらの人々が、一見しっかりした口調で質問に答えているのは、少しも不思議ではない。しっかりしている訳ではない、起きたことがまだ実感できていないのである。
この人々が悲しみ、憤り、自責の念に駆られるのは一定の時間が経ってからである。その時あらためて罹災直後の自分の映像を見たとしたら、それが強い苦痛をもたらす危険は決して小さくない。災害発生直後に当事者にむやみにカメラやマイクを向けることは、厳に戒むべきであると主張したい。
昔の文部省唱歌に「年の始めのためしとて」と歌い出す有名なものがあり、ついでにこれまた有名な替え歌がある。
「年の始めのためしとて」に続いて「終わりなき世のめでたさを/松竹(まつたけ)立てて門ごとに/祝う今日こそ楽しけれ」とあるのが本歌、これをもじって「尾張名古屋は大地震/松竹でんぐり返して大騒ぎ/後の始末は誰がする」とやったのが替え歌で、戯れ言とはいえこんな不謹慎な歌を歌うものではないと、それこそ厳しく戒められた。
ただ、この替え歌の字面を眺めていると、戯れ言どころか辛辣な警句であり警告であるようにも思えてくる。まさに「後の始末は誰がする」で、これを「おら知らないよ」と言い抜けるか「みんなでやろう」と受けとめるか、震災は有史以来、飽くことなくそれを繰り返し問うてきたのだ。
今回の被災地に近い福井市は、米軍の空襲で灰燼に帰した傷が癒える間もない1948(昭和23)年6月28日に大地震に見舞われ、4,000人近い死者が出た。地震の震度は「0、1、2、3、4、5弱、5強、6弱、6強、7」の10段階だが、震度7(激震)は福井地震の凄まじさを踏まえて翌1949(昭和24)年に設けられたもので、その後、能登半島地震まで計6回(数え方によって7回)しか記録されていない。
その福井地震からわずか一ヶ月後の7月25日、梅雨前線が活発化して激しい雨が三日降り続いた末、地震のため沈下や亀裂の生じていた九頭竜川の堤防が決壊した。国土交通省のサイトには「被害不明」とある。死者・行方不明者や浸水家屋の把握すらできない状況下での激甚災害であった。
空襲・地震・水害の三重苦から立ち直った福井市は後に「不死鳥(フェニックス)」を市のシンボルとするに至る。復興を成し遂げた福井市民・県民の不屈の力は賞賛に余りあるが、敗戦間もない荒廃期に国中の各種団体や個人が示した反応の大きさと救援の努力も、大いに注目されて良い。くだって今次の能登の震災にあたり、福井県・福井市が救援に向けて素早い動きを起こしているのは、隣県という理由だけではないだろう。後の始末は「みんなでやろう」が福井の人々の骨髄に徹しているのに違いない。
替え歌に戻って「尾張名古屋は大地震」から直ちに連想されるのは1891(明治24)年の濃尾地震だが、これは同年10月28日に始まったことで正月の出来事ではない。つまり替え歌は「おわり」という言葉だけをキーにした単純なものである。「年の始めの」と歌う『一月一日』が文部省唱歌として発表されたのが1893(明治26)年であり、発生から一年少ししか経たない濃尾地震の印象がそれほど強かったことを意味するだろう。マグニチュード8.0(阪神・淡路大震災は7.2、関東大震災は7.9)の内陸直下型地震で、死者は全国で7,000人余、家屋の全壊・焼失14万戸余りに及んだ。
名古屋の友人達は概して防災意識が高く、その点について彼らが一番に挙げるのは「伊勢湾台風(1959/昭和34年)の話を親や祖父母から聞かされた」、あるいは「自分でも微かに覚えている」ということであるが、遡れば濃尾地震の記憶も家族内で伝承されてきたことと想像する。罹災は大きな不幸だが、体験の伝承が世代を繋ぐなら幸いの基となる。
いま、文字通り年の始めに大きな「試し」を天から与えられた。後の始末を誰がどのようにするかを問う「試し」であり、この後に続いてくるさまざまな試練に向けての「始めの一歩」である。
合掌
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