散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

『クアトロ・ラガッツィ』と若桑みどりさんについてE君とやりとりしたこと

2024-01-23 11:52:20 | 日記
2024年1月23日(火)

E君より来信:
 『クアトロ・ラガッツィ』を読了しました。
 少年使節のことだけ書いてあるかと思いきや、信長から家康に至る日本史をキリスト教伝道の盛衰というエピソードから描いた傑作ですね。著者が美術史専門家というのがいい。
 いろいろ勉強になりましたが、とりわけヴァリヤーノは文化交流の先達として尊敬すべき人物だと感心しました。現代の国際交流の仕事でも、こちらから出かけた日本人職員が現地スタッフと一緒に働いている場合、現地人に対して上から目線で接する職員と、親しく友達になる職員と、二つのタイプにはっきり分かれるんです。
 昔も今もスペイン・ポルトガルも日本も変わりませんね。
 少年たちのローマでの日本からの書簡の献上の場面は、以前に見た大使の信任状捧呈式とそっくりです。彼らは当時の日本大使の役割を果たしたんだなあと頼もしく読みました。
 ところで下の写真は数年前のポルトガル旅行で、コインブラ大学を訪れた時のものです。偶然図書館で日本展を開催しており、日本地図などが展示されてました。この本を先に読んでいたらもっと感動したでしょう。
 帰国後の四人が、ローマの思い出にどう向き合って生きたのかと想像してしまいます。ほんとにあの時代だから、ローマに行くなんて夢みたいなことですよね。

 

E君へ返信:
 示唆に富んだ読後感をありがとうございます。帰国後の四人、そうですね、どんなふうにローマを思い起こしたのでしょうか。
 キリスト教信仰をもち続けた三人(伊東マンショ 1612年病没、原マルチノ 1614年のキリシタン追放令でマカオに移り 1629年病没、中浦ジュリアン 1633年殉教)と棄教した千々石ミゲルでは、思い出し方も違ったことでしょう。
 もっとも千々石ミゲルの棄教は見せかけのものであり、実際には潜伏キリシタンだったとの可能性が指摘されているそうで、個人的には十分あり得ることと思います。2017年に遺骸が発見されたようですね。
 海外経験の長かった貴兄は、それぞれの土地についてどんなふうに思い起こされるのでしょう。僕?僕はなかなか変わらない日本の社会を見て「もっと違ったやり方もあるし、変わろうと思えば変われるのだ」と考える時のエネルギーの源を、三年ばかりのアメリカ体験に汲んでいるようです。
 若桑みどりさん、おっしゃるとおりタダモノではない美術史家で、別の調べものをしていて、「こんなのも書いてたの?!」とびっくりしたこと一度ならず。かなりの多作でもあります。まぁ見てください。

     

    
 
     

   

 2007年に71歳の若さで他界なさったのは誠に残念、その後の世界史の流れについて是非この方の発言を聞いてみたかった気がします。『クアトロ・ラガッツィ』の書きぶりから御自身はクリスチャンではいらっしゃらないものかと思っていましたが、御葬儀はカトリック教会で行われたようです。
 つい先日、フランスの風刺画家ドーミエの作品集を探していたら、ここにも若桑さんが出てきました。ドーミエは面白いですよ、この次もっていきますね。


Ω

「復讐するは我にあり」 本来の意味

2024-01-23 11:23:51 | 聖書と教会
2024年1月23日(火)

 これはまた盛大に誤解転用されているようだが、「我」とは報復の怒りに燃える当事者自身ではなく、主なる神であるのが本来の形。
 まず、先の項に転記したパウロの言葉から。

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
 「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」Ⓐ
 と書いてあります。
 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」Ⓑ
 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
『ローマの信徒への手紙』12章19-21節

 「と書いてあります」とある通り、これはパウロのオリジナルではなく旧約聖書からの引用である。引用元はいろいろ考えられるが、たとえば次の通り。

Ⓐ 
 わたしが報復し、報いをする/彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る。
申命記 32章35節

Ⓑ - 1
 エリシャは答えた。「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
 列王記下 6章22節

Ⓑ - 2
 あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。
 こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。
箴言 25章21-22節

 以上、引用終わり。特に箴言のそれが鮮やかだろうか。

Ω

パウロ書簡と呼ばれるもの

2024-01-23 11:11:51 | 聖書と教会
2024年1月14日(日)

 『テサロニケⅠ』と『ローマ』を読み比べると、パウロの再臨理解の微妙な変化が見てとれる…そのように今朝教わった。この機会に少し整理してみる。

 まず、新約聖書を形式上3部に大別する。
  1.  四福音書と、ルカによる福音書の続編である使徒言行録
  2.  手紙
  3.  ヨハネの黙示録
 2.の手紙はあわせて21編、発信人がタイトルに明示されているものが7編(ヤコブ1、ペトロ2、ヨハネ3、ユダ1)、他の14編はすべて使徒パウロが書いたものとかつては信じられていた。近代における考証は、内容・文体などを仔細に検討した結果として、14編中7編だけをパウロの真筆と認めるに至った。
 他の7編は弟子や同労者、後世の信奉者などがパウロの名によって書いたものとされる。これは現代的な意味での盗作・偽作ではなく、新約聖書の時代に地中海世界で広く行われていた習慣であるらしい。これはペトロやヨハネの名を冠した手紙についても同様で、とりわけヨハネ書簡については、「ヨハネによる福音書」3つの「ヨハネ書簡」そして「ヨハネの黙示録」の真の著者はそれぞれ誰なのかという論題が、「ヨハネ問題」として長く議論されてきた。

 で、実際に使徒パウロが書いたものはどれかというと、下記の14編のうち朱字で示した7編ということになる。

 ローマ、コリントⅠ、コリントⅡ、ガラテヤ、エフェソ
 フィリピ、コロサイ、テサロニケⅠ、テサロニケⅡ、テモテⅠ
 テモテⅡ、テトス、フィレモン、へブライ

 それぞれの手紙の執筆年代や場所についてはは不明の点が多い。もともと別々の手紙だったものが後に一書にまとめられたものもあり、甚だ錯綜している。
 ただ、最初に書かれたものと最後に書かれたものは、諸般の事情からほぼ確定できる。そこで時系列に沿って、以下のように並べ直す。
  1.  テサロニケⅠ 西暦50年頃
  2.  コリントⅠ、コリントⅡ、ガラテヤ、フィリピ、フィレモン 西暦50年代半ば
  3.  ローマ  西暦55~56年頃、2 の時期に書かれたものの集大成
 ここまでが真筆で、パウロ自身は西暦64~65年頃のネロ帝による迫害の中で殉教したものと考えられる。その後にもパウロの名によって書かれたものが存在するのは、上述のような当時の「著者」理解から説明される。

 4. コロサイ、ヘブライ、テサロニケⅡ、エフェソ 西暦70~90年代
 5. テモテⅠ、テモテⅡ、テトス(いわゆる「牧会書簡」) 西暦1世紀末~2世紀初め

 福音書の成立時期は、最も早いマルコが西暦65~70年頃、マタイとルカが80年代、やや遅れてヨハネが80~90年代などと紹介されているが、当然異説は多い。いずれにせよ文書としてはパウロ書簡が最も早く、とりわけ『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ』は新約聖書の全文書中、筆頭ということになる。
 パウロという人は、きわめて論理的な弁証を身上とする理知的な人物のように見えるが、そもそもの出発点がダマスコ途上の劇的な霊的体験にあることからわかるように、根底において理知よりも直観の人である。その直観においてイエスの再臨が今日明日にも起きることを当初は確信していた。テサロニケⅠにはそうした期待が昂揚感をもって語られる。

 「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。」(4:15)
 「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(5:2-3)

 そのように主の日が近いのであれば、教義について緻密な理論を構築したり、体系的な著書を著したりすることは実質的に意味がない。ただ一刻も早く、少しでも多くの国民に福音を伝えることがパウロの課題のすべてであった。
 その最終計画としてローマからイスパニアまでの伝道旅行に着手しようとしていたパウロが、これから出会おうとする未知の人びとに対して送った所信表明の書がローマ書である。従って、他の手紙のほとんどが自身の建てた教会に向けての牧会の書であったのに対し、ローマ書だけが彼が建てたのではない教会に宛てて書かれている。
 このように考える時、これまで読みづらいばかりだったローマ書の全体が、いくらか柔らかいものに見えてくるようである。以下の言葉もこの手紙の内にあるのだった。

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
『ローマの信徒への手紙』12章19-21節

Ω

1月23日 福島大尉と八甲田山

2024-01-23 07:07:59 | 日記
 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.28

1月23日 青森歩兵第5連隊が八甲田山雪中行軍に出発する

 1902(明治35)年1月23日、陸軍第8師団青森歩兵第5連隊210名は、雪中行軍訓練のため往復二日の行程で筒井の営舎から田代温泉に向かった。訓練はそり14台を兵士が曳く糧食輸送の研究目的で行われ、目前に迫った対ロシア戦を念頭に置いたものだったという。しかし、その日のうちに天候が急変し、猛吹雪の中で道を失った部隊はやむなく露営、さらに翌日も悪天候の中をさまよい、部隊中199人が凍死する大惨事となった。
 一方、同じ1月の20日に八甲田山踏破を目指して出発し、生還した部隊があった。福島泰蔵大尉率いる弘前歩兵第31連隊の精鋭37名である。こちらも雪中行軍の訓練だったが、万全の装備を整え十泊十一日の行程で弘前の連隊本部を出発した。福島大尉はロシア軍の冬季行軍の情報を参考にし、現代の冬山登山にも十分に通用する細かな注意を隊員全員に徹底させた。この福島大尉の指揮力が二つの部隊の明暗を分けたのである。
 第5連隊の惨事の原因については、準備不足と異常な悪天候、指揮官の判断ミスなどがあげられている。遭難者の捜索は難航を極め、最後の遺体は約半年後に回収された。
***
 この事件は新田次郎(1912-1980)の『八甲田山死の彷徨』(1971)に詳しく、これをもとに制作された映画『八甲田山』(1977)が評判になった。高倉健はじめ錚々たるキャストで、とりわけ北大路欣也扮する第5連隊の神成大尉(映画では神田大尉)が四方も上下も雪に閉ざされ、「天は我々を見放した」と呻く悲痛な場面が記憶に鮮やかである。当時はあまり気に留めなかったが、災害への備えを考える上で貴重な教訓を伝える事件と思われる。
 210名中199名が凍死したということは、11名は救助され生還したのである。Wikipedia 「八甲田雪中行軍遭難事件」によれば、11名中8名が凍傷のため手または足の切断を余儀なくされたとある。ただし11名中、最も長命したのは8名の一人である小原忠三郎伍長で、両足と手指を切断されたものの1970年に91歳で天寿を全うするまで療養所で健在だった。事件の関連情報は旧陸軍によって厳重に秘匿されていたから、詳細が明らかになったのは陸上自衛隊関係者や作家小笠原孤酒による、小原氏への戦後の聞き取りに負うところが大きい。
 一方、福島泰三大尉(映画では徳島大尉)の事前準備および行軍指揮は見事な成功事例であり、範とされ大いに称揚されて良かったはずであるが、話はそう簡単ではなかった。青森隊と弘前隊が同時期に八甲田入りしたのは偶然によるもので、少なくとも公式には互いの動静を知らなかったとされる。ところが実際には弘前隊が行軍中に青森隊の遭難を目撃した形跡があり、それにもかかわらず救助活動を行わなかったとして非難する説があるらしい。
 二次資料を見ただけでは真偽のほどは分からないが、そもそも199名の屈強の若者を凍死させた雪地獄の中、自身も遭難の危険にさらされながら「救助」ということができるものかどうか甚だ疑わしい。安全なところから揚げ足をとるのは容易いことで、福島大尉はその種の揚げ足取りに悩まされた印象がある。
 同大尉の人柄についてもう一つ。遭難した軍属は事故後に手厚く遇されたが、案内人として徴用された地元民は配慮の外に置かれた。これに対して地元村長から、「七人の案内人の凍傷治療に要する費用を陸軍が負担してくれるよう、助力してほしい」との手紙が福島大尉宛てに送られ、これが同大尉の遺品中に保存されていたという。村民は福島大尉ならば助けてくれるかと期待し、大尉またこの手紙をよく保存していたのである。その願いが届いたかどうか手元ではわからない。戦陣から無事復員の暁には一臂の労をとるべく、手紙を保存していたとの推測もできるだろう。
 福島泰三大尉(1866-1905)は現在の群馬県伊勢崎市出身、小学校教諭から陸軍軍人に転じた。1902年に八甲田山の雪中行軍を成功させた後、歩兵第32連隊第10中隊長に任じられる。日露戦争二年目の1905年1月28日、黒溝台会戦において戦死。奇しくも八甲田山で遭難した青森連隊の生存者11名中、最も健常であった倉石一大尉が一日前の1月27日に同じ黒溝台で戦死している。
 黒溝台ではグリッペンベルク率いるロシア軍の猛攻に対し、日本軍が苦戦の末に辛勝をもぎとり、旅順要塞攻略に続く日露戦争の転換点となった。その惨戦のありさまは司馬遼太郎『坂の上の雲』に詳しい。

冬の八甲田山 https://ja.wikipedia.org/wiki/

Ω