
1月17日 スコット隊、南極点到達
> 1912年1月17日、ロバート・スコット率いるイギリスの南極探検隊は、苦労の 末ようやく南極点に到達した。彼らが目指していたのは、人類初の南極点到達だったが、たどり着いた南極点には、無情にもノルウェーの国旗が立っていた。
> 雪上車の故障や、馬ぞりの馬が死ぬなどのトラブルに見舞われたスコット隊は、人力でそりを引き、やっとの思いで 南極点に到達した。しかし、帰路悪天候に見舞われ、初到達できなかった失意も重なり、食料や燃料の確保地点までわずかのところで全員が力尽きた。
昨年12月のことであるが、北海道の親元に帰った知人に近況を問い合わせたところ、怖い話を聞かせてくれた。雪深い土地でも近来にないほどの吹雪の中、高齢の御父君が自宅のすぐ近くで危うく遭難しかかったというのである。周囲360°がすべて真っ白に閉ざされれば、そうしたことは容易に起き得る。80年を超える御父君の人生の中で、記憶にないほどの猛烈な吹雪だったらしい。
> 雪上車の故障や、馬ぞりの馬が死ぬなどのトラブルに見舞われたスコット隊は、人力でそりを引き、やっとの思いで 南極点に到達した。しかし、帰路悪天候に見舞われ、初到達できなかった失意も重なり、食料や燃料の確保地点までわずかのところで全員が力尽きた。
昨年12月のことであるが、北海道の親元に帰った知人に近況を問い合わせたところ、怖い話を聞かせてくれた。雪深い土地でも近来にないほどの吹雪の中、高齢の御父君が自宅のすぐ近くで危うく遭難しかかったというのである。周囲360°がすべて真っ白に閉ざされれば、そうしたことは容易に起き得る。80年を超える御父君の人生の中で、記憶にないほどの猛烈な吹雪だったらしい。
この話を聞いて、スコット隊のことを思い浮かべた。引用にある通り、スコット隊は食料・燃料の貯蔵地点のすぐ近くまで戻っていながら、悪天候の中でわずかに到達することができなかったのだ。この件をメールで書き送ったところ、後日知人に大いに感謝された。「南極探検隊?話がそこにいくの?」と大受けし、御家族一同たいへん和んだそうな。
お役に立てば幸いというものの、笑い話のつもりはなかったので妙な気分ではあった。事ほど左様に吹雪は怖い。福島で働いていた時代に東北自動車道でこれに近い思いをしたことがある。視界0メートルでやむなく停車したものの、雪の幔幕の中から今にも車が突っ込んできそうで心底恐ろしかった。
さらに後日談。以上の話をある会合で披露したところ、読書家のK君が下記の本を紹介してくれた。それによればスコット隊は単に南極点初到達を目指しただけでなく、学術調査を行いつつの探検の途次にあったわけで、言ってみればノルウェー隊と志のありようが違ったのだという。その点は上掲書の旧版も触れており、結びに「最後は全滅という悲劇で終わったが、スコット隊はこの時も優れた学術調査を残している」との一文を付け加えている。

ところで最近では知る人も少ないものと思われるが、白瀬矗(しらせ・のぶ)率いる日本隊も同じ時期に南極点を目ざしていた。時系列に沿って記すと以下のようになる。
1911(明治44)年11月19日、白瀬隊シドニーを出港
12月14日、アムンゼン隊(ノルウェー)南極点到達
1912(明治45)年1月17日、スコット隊(イギリス)南極点到達
1月20日、白瀬隊(日本)2台の犬ぞりで南極点に向け出発
1月28日、南緯80度05分の地点で前進を中止、一帯を「大和雪原」と命名
日露戦争を経て、あらゆる方面で世界と競うべく果敢な挑戦を続けた時代の日本人像が彷彿されるだろう。白瀬は帰国後非常な歓迎を受けたが、探検に要した費用のかなりの部分を個人的に負担せねばならず、借金返済のため長い苦労を余儀なくされた。
「借金を返し終えたのは昭和10年、白瀬は74歳になっていました」と下記サイトが記している。
白瀬矗(1861‐1946)、秋田県由利郡出身、愛知県西加茂郡にて没
辞世: 我無くも必ず捜せ 南極の地中の宝 世に出だすまで

白瀬南極探検隊記念館(秋田県にかほ市)web site より
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