散日拾遺

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1月29日 エドガー・アラン・ポー(1845年)

2024-01-29 19:12:52 | 日記
 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.34

1月29日 ポーが「大鴉」を発表する

> 1845年1月29日、エドガー・アラン・ポーは詩「大鴉(おおがらす)」をイブニング・ミラー紙に発表し、好評を得た。ポーは18歳で最初の詩集を匿名で出版し、その後多くの作品を書いたが、世間的評価を受けたのは、この「大鴉」が初めてであった。
> エドガー・アラン・ポーはアメリカのボストンで1809年に生まれた。両親ともに俳優だったが、彼が3歳の頃には二人とも亡くなり、裕福な商人ジョン・アランに引き取られ、エドガー・アラン・ポーと名乗るようになった。しかし、ジョン・アランは彼を籍には入れず、その財産を継がせるかどうかも決めなかった。この不安定な立場は青年期のポーに大きな影響を与えたと思われる。
> バージニア大学に入るものの放校処分となり、その後軍隊に入るがそこでも解任される。自活せざるを得なくなったポーが選んだ道は、懸賞小説に応募するために短編を書くことだった。
> その後、懸賞小説の仕事を通して雑誌に寄稿するようになり、編集助手の仕事につく。27歳の時に14歳年下のいとこと結婚するが、11年後妻を結核で亡くしてからは、ひどく酒に溺れるようになり、泥酔して倒れ亡くなった。享年40歳。

***

 Wikipedia には、彼の父は「蒸発」したとある。1810年にリッチモンドでの公演を終えた直後に突如失踪し、長女を身ごもっていた妻エリザベスと3歳と1歳の二男子が遺された。エリザベスは長男を夫の実家に託し、次男エドガーを引き取って育てようとしたが、産後の肥立ちが悪かったうえに結核にかかり、1811年に他界した。三人の遺児はそれぞれ別の家庭に引き取られた。
 27歳の時に14歳年下の、つまり13歳のいとこヴァージニアと結婚したというのは誤記ではない。結婚誓約書には21歳と記されていたそうだから、文書偽造である。この妻が24歳の若さで、母と同じ結核で亡くなった。その2年後の泥酔死だった。
 『大鴉』、原題は "The Raven" である。ravenとはワタリガラス(Corvus corax)のことで、サイズが大きく羽色が真っ黒である。crow はスズメ目カラス科カラス属(Corvus)の総称であるが、実際には北米のアメリカガラスを指すことが多いのだそうだ。漢字の「烏」は象形文字で、カラスの体が黒いため目の位置がわかりにくいことに由来するのに対し、「鴉」は形声文字すなわち意味と音の組み合わせであり、ガーガーという鳴き声が「牙」の部首に託されているという。
 「心乱れる主人公(語り手)の元に、人間の言葉を喋る大鴉が謎めいた訪問をし、主人公はひたひたと狂気に陥っていく」という筋立ての、その『大鴉』は以下のように始まる。
Once upon a midnight dreary, while I pondered, weak and weary,
Over many a quaint and curious volume of forgotten lore,
While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,
As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.
"'Tis some visitor," I muttered, "tapping at my chamber door —
Only this, and nothing more."

ギュスターヴ・ドレ挿画(1884年)
"Not the least obeisance made he"
Wikipedia より

Ω