
1月14日 サラ・ベルナールがレジオン・ドヌール賞を受ける
これが底の浅さというもので、サラ・ベルナールがどこの誰だか全く知らなかった。聞いてみれば、なるほどこれは近代文化史上に冠たる人物である。
> サラ・ベルナールは1844年にパリで生まれた。私生児であったため、修道院で教育を受けたが、勧められるままにコンセルヴァトワールに入り、役者となった。少年のような風貌でやせていたため、最初は人気が出なかったが、天性の美声と演技力で、フランスだけでなくアメリカやカナダをも巡演する国際的な大女優となった。アルフォンス・ミュシャにポスターを依頼したことでも有名である。
> 彼女のアメリカでの名声を証明する面白いエピソードがある。発明王エジソン はサラ・ベルナールの大ファンだった。彼女がニューヨークに来ていることを知り、さっそく研究所に招待し、迎えの馬車を差し向けた。到着したのは夜中の二 時過ぎだったが、突然あたりが真昼のように明るくなり、サラ・ベルナールを驚かせた。木も藪も歩道もいっせいに電灯がともり、彼女を歓迎する歓呼に包まれたのである。まさにエジソンならではの演出だった。サラ・ベルナールはこの歓待に感激し、ヨーロッパに帰ってからもエジソンをナポレオンにたとえて褒めそやしたという。
(前掲書 P.19)
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https://blog.coruri.info/entry/mucha_and_sarah_bernhardt より拝借
サラ・ベルナール(1844-1923)とアルフォンス・ミュシャ(1860-1939)、運命の交錯は1894年、こちらでは大日本帝国が清国との戦争のさなかにあった。その年の瀬のできごとである。
…ベルナールは急遽ポスターを発注することにしたが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いてたミュシャに飛び込みで依頼した。威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品『ジスモンダ Gismonda』は当時のパリで大好評を博し、文字通り一夜にしてミュシャのアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとした。このことはまたサラ・ベルナールにとっても、フランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなった。
Wikipedia 「アルフォンス・ミュシャ」
当時、新聞や雑誌のイラストレーターの仕事をしていたミュシャは、同年12月26日、友人のクリスマス休暇の代わりに、ルメルシエ (Lemercier) 印刷所で校正の修正をしていた。
そんな中、印刷所に女優サラ・ベルナールのマネージャーからポスター制作の依頼が入る。同年10月30日から初演が行われていた、ヴィクトリアン・サルドゥー(フランス語版)原作、サラ主演の宗教劇『ジスモンダ』の再演が急きょ決定したため、翌年の1月1日までにポスターを用意しなければならなくなったのだという。
当時、印刷所には刷り師、彫り師および印刷工がいただけであり、イラストレーターはミュシャ一人であったため、彼がその仕事を急きょ引き受けることになった。12月31日、サラは刷り上がった『ジスモンダ』のポスターを見て、「なんて素晴らしいの!」と叫び、「これからは私のために描いて!」と言った。
翌日、このポスターはパリの街に貼り出されるとすぐに大評判となる。劇は1月4日に開演された。1895年、サラはミュシャと6年間にわたる独占契約を結び、ミュシャはサラのポスターを次々に手がけ、一気にポスター界の寵児に躍り出る。
そんな中、印刷所に女優サラ・ベルナールのマネージャーからポスター制作の依頼が入る。同年10月30日から初演が行われていた、ヴィクトリアン・サルドゥー(フランス語版)原作、サラ主演の宗教劇『ジスモンダ』の再演が急きょ決定したため、翌年の1月1日までにポスターを用意しなければならなくなったのだという。
当時、印刷所には刷り師、彫り師および印刷工がいただけであり、イラストレーターはミュシャ一人であったため、彼がその仕事を急きょ引き受けることになった。12月31日、サラは刷り上がった『ジスモンダ』のポスターを見て、「なんて素晴らしいの!」と叫び、「これからは私のために描いて!」と言った。
翌日、このポスターはパリの街に貼り出されるとすぐに大評判となる。劇は1月4日に開演された。1895年、サラはミュシャと6年間にわたる独占契約を結び、ミュシャはサラのポスターを次々に手がけ、一気にポスター界の寵児に躍り出る。
Wikipedia「ジスモンダ」
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