散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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1月22日 イヴ・サンローラン

2024-01-21 21:12:32 | 日記
  晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.27

1月22日 イヴ・サンローランが惜しまれつつ引退する

 2002年1月22日、パリ・オートクチュールの大御所イヴ・サンローランの最後のコレクションがパリで行われた。オートクチュール部門はこれで閉鎖され、サンローランは引退を表明した。若くしてクリスチャン・ディオールに見出されてからおよそ半世紀、その才能を惜しむ声はいまだに高い。
 サンローランは1957年にディオール急死の後、21歳の若さでその後継者となった。記者会見で紹介された長身の金髪の青年は、記者たちにはまったく未知のデザイナーだったが、実際には直前の秋冬コレクションには35点ものデザインを出していたし、ディオール自らも「イヴは私の後を継ぐ人」と語っていた。
 果たしてこの若者は26歳で自分のメゾンを立ち上げ、それまでパリのファッション界にはなかった既製服という新しい方法を導入した。服を売る時代から、デザインと品質を売るデザイナーの時代へとファッション界を一変させたのである。
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 ファッションの話となると、ジャズなどとはまた桁違いに遠い世界のことである。才能を惜しむ声は「いまだに高い」と上掲書に書かれたのが2005年、イヴ・サンローランはその三年後に他界した。
 1936年、フランス領アルジェリアはオランの生まれである。アルジェリアの地中海に面した海岸線は東西約1,000㎞に及ぶ。そのちょうど中点に位置するのが首都アルジェ、オランはそこから370㎞ほど西に位置し、カミュはこの街を『ペスト』の舞台に選んだ。カミュ自身は逆に海岸線の東の国境に近いモンドヴィ(現ドレアン)で生まれ育ち、アルジェ大学を卒業した。
 カミュより20歳あまり年下のイヴ・サンローランは18歳で親元を離れ、パリに移って服飾専門の高等教育学校へ進む。同じ1954年にアルジェリア独立戦争が勃発し、1962年まで続いた。弱冠21歳で国民的英雄となったイヴ・サンローランは1960年に徴兵招集を受ける。ところが入営後わずか20日ほどで、精神に変調をきたして精神病院に収容された。軍隊内のいじめが原因の神経衰弱とあるが、電気ショック療法まで受けたというから、ただごとではない。後年の薬物依存や抑うつ症状の伏線と思われる24歳の深刻な危機であったが、これがはからずも彼の人生を大きく転回させた。
 1961年、除隊後のイヴ・サンローランは神経衰弱を理由にディオールからあっけなく解雇される。非情なことだが、何が幸いするかわからない。「恋人」でありビジネスパートナーでもあるピエール・ベルジェの協力を得て、翌62年に自身のオートクチュールメゾンを設立し、その後の活躍は上掲書の記す通り。天から地、そしてまた天の高みへ、これほど極端な乱高下も珍しい。
 シンプソン夫人と対照的に、イヴ・サンローランは有色人種のモデルを分け隔てなく起用したことで人々に記憶されている。曇りない審美眼の透徹した力を思う。
 

ピエール・ベルジェ(左)とイヴ・サンローラン (c) Fairchild Fashion Media
https://www.wwdjapan.com/articles/467167

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1月21日 朴正熙

2024-01-21 18:44:39 | 日記
 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.26

1月21日 朴大統領官邸が北朝鮮ゲリラに襲撃される

 1968年1月21日、韓国の朴大統領官邸付近で突然激しい銃撃戦が発生した。この銃撃戦は北朝鮮ゲリラ部隊と官邸の警備にあたっていた警官隊との間で起こったもので、これによって警官二名と民間人五名の死亡者が出た。武装ゲリラは翌日身柄を確保され、北朝鮮の軍人であることが判明した。彼らは朴大統領の暗殺が目的であったと述べ た。
 朴正煕(パクチョンヒ、박 정희 1917-79)は韓国に軍事独裁体制を確立した軍人政治家だった。1961年5月に軍事クーデターを起こし、同年7月トップの座に着くと、軍事力をバックに反共親米を掲げ、腐敗政治家の一掃や風紀是正を推し進め た。
 このゲリラ襲撃事件から6年後の1974年8月15日、朴大統領は再び暗殺の危機に見舞われる。この時は独立記念日(光復節)を祝う式典の演説中に銃撃され、流れ弾に当たった大統領夫人と女子学生一人が亡くなった。犯人は在日韓国人で、しかも大阪市内の派出所から盗まれたピストルが使用されたため、一気に反日感情が高まった。
 さらに5年後の1979年10月26日、朴大統領は腹心の部下であったKCIA部長に暗殺された。当初は事故とする報道もあったが、経済状況の悪化や永久政権への反発から退陣を求めるデモが頻発する中で起きた暗殺事件であった。ちなみに第十八代韓国大統領朴槿恵は彼の娘である。
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 1984年のインディラ・ガンジー暗殺の報道は覚えていなかったが、1979年の朴大統領暗殺の衝撃は記憶に鮮明である。ただ、それが1980年のことだと思い込んでいた。大学教養部のキャンパスでその報を聞いたもののように記憶が脚色され、御丁寧にも周囲の眺めや友人の驚きまで添え物になっているが、1979年にはまだ入学していなかったのだからそんなことはあり得ない。これだから記憶は当てにならないのである。精神分析はあらゆる錯誤に理由を求めるが、朴大統領暗殺の年を書き換えなければならない心理的な理由など、まずもってありはしない。
 朴槿恵(パク・クネ 박 근혜、1952‐)は、朴正熙大統領とその再婚相手である陸英修(ユク・ヨンス 육 영수)夫人の間に生まれた。上記1974年の事件で亡くなった大統領夫人というのが陸英修である。つまり朴槿恵は22歳の年に母を、27歳の年に父を、凶弾によって喪ったことになる。政治のことはそれとして、これほどの痛手に挫けず歩む一個人としての姿に、深い同情と敬意を禁じ得ない。
 1968年の事件に戻っていえば、朝鮮戦争は国際法上まだ終結していなかったから、こういうことも起き得たのであるが、恐ろしいことにその事情は現在も変わっていないのである。ウクライナや中東の乱戦状態が極東情勢に深く連動している今日、いつ何が起きるか文字通り見当がつかない。韓国の人びとがそれを肌身で実感すること、およそ当方の比ではないだろう。

    
父、娘、母  Wikipedia より

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