散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

今日は何の日? ~ 日本シリーズ/ケネディ暗殺/いい夫婦/北極海航路(オマケ)

2013-11-22 07:43:32 | 日記
2013年11月22日(金)

 1950(昭和25)年の今日、初の日本シリーズ開催。
 球場と対戦チーム名を即答できる人は、かなりのマニアだろう。神宮球場で、松竹ロビンス vs 毎日オリオンズというのが正解。

 松竹ロビンスは、その2年後に大洋ホエールズと合併。対等合併だったが松竹がすぐに経営から撤退したので、結果的には大洋に吸収される形になった。と、ネットで調べないと分からないのは、生まれるより前の話だもんね。
 毎日オリオンズは、僕の生まれた年に大毎オリオンズに変わった。「大阪毎日」の略ではない、「毎日大映」だ。鉄道会社と並んで映画会社が親会社だった時代を現している。その後1964年に東京オリオンズ、69年にはロッテオリオンズに変わっている。

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 1963(昭和38)年の今日、ジョン・F・ケネディ大統領がダラスで暗殺された。日本へは初の衛星中継で第一報が入ったように記憶する。リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行という公式見解には当時から疑問が多かったが、僕はこの見解をまったく信じていない。ジム・ギャリソン(1921-92)『JFK』は一読に値する。
 セントルイス時代、僕らに良くしてくれたボブ・プライスというアメリカ人は、共和党支持者でケネディには批判的だったが、真犯人はFBIだと公言してはばからなかった。大統領暗殺のニュースを聞いた瞬間のことをよく覚えていて、「時間が止まったように思われた」と表現した。支持する者にとっても反対する者にとっても、アメリカのイノセンスが大きく揺らいだ瞬間だったのだ。
 いっぽう、僕より若いユダヤ系精神科医のナリ・ファーバーは、「オズワルドの単独犯行だよ」と言い切って、それ以上関心を示す様子もなかった。アメリカの新しい保守主義との関係で、ナリというこの男を見たら面白かったかもしれない。

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 ラジオを流して聞いていたら、今日は1122で「いい夫婦の日」でもあるんだそうだ。どういうわけだかアパレル業界か何かが「生まれ変わっても今の相手と結婚するか?」を尋ねたアンケート調査が最近あり、これに「はい」と答えた者が男性では約40%あったのに、女性では25%足らずだったという。かつ、この較差が加齢とともにどんどん大きくなる。70代の数字は・・・あまりに衝撃的で忘れてしまった。
 言うまでもなく、これは「来世」の話ではなくて「現在」の夫婦関係に関する満足度調査なのだ。男性の定年退職後の生活がこれに反映されていること、疑いない。石倉教室はそろそろ卒業し、中高年男性のための料理教室でも通おうかと冗談半分に考えていたが、本気になったほうがいいかもな。

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 もうひとつラジオネタ、地球温暖化で極地の氷が融け出しているのは喜べない話だが、その副産物として北極海が航行可能になっているんだそうだ。で、見慣れたメルカトル図法の地図の代わりに地球儀を見るか、あるいは航空路を考えれば分かるとおり、北極海を通る航路はスエズ運河経由に比べ、ヨーロッパまでの距離を3分の1だか何だかに大幅短縮する可能性をもっているんだと。
 北極、ロシア、日本海・・・「北」の意味が根本的に変わる可能性が目の前にある。北極圏即米ソ対決の最前線であった冷戦時代よりも、これは好ましい方向への変化に違いない。まさに雪融けだ。

学習性無力/CATの会と思いがけないプレゼント

2013-11-21 22:53:25 | 日記
2013年11月20日(水)

 Windows-XP のサポートが来春で中止されるというので、みな大慌てで Windows 7 へのバージョンアップに励んでいる。僕は放っておくつもりだったが、大学から対応を進めるよう指示があったので、しぶしぶ出入りの業者に依頼した。すると ~ このあたりの理屈が分からないのだが ~ システムソフトだけを入れ替えるのではなく、機械本体を買い換えねばならないのだという。業者があこぎな稼ぎを目論んでいるわけでもなく、そういう仕組みになっているらしい。
 全世界で同じことが起きているのだろう。全人類が一マイクロソフト社に振り回されている。いい面の皮だ。いつからこんな世の中になった?これなら「壁の向こう側」の存在した冷戦時代の方がよっぽどマシだ。
 皆、腹を立てても仕方ないので、感情を波立たせないよう注意しながら「対応」に励む。誰も文句を言わないのは、誰も文句がないからではない。

 水曜は会議日。教授会冒頭で、前回さんざん反論や苦情の出た執行部提案が、若干の修正を経て再提出された。修正された文言を見て、自分らが朝三暮四のおサルになったような気がした。これで間違いなく僕らの負担はまた増える。皆それとわかっているのに、10月の紛糾がウソのように無風の承認となった。文句を言うのにもエネルギーが要るし、有限のエネルギーをそんなところに使いたいと思うほど、ヒマ人が集まっているわけではない。誰も文句を言わないのは、誰も文句がないからではない。

 これをこれ、学習性無力という。

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 夜は高田馬場でCATの集まり。
 クチブエ君は水曜日はなかなか出られない。Kokomin さん、イザベルさん、勝沼さんの超コアメンバー。

 前半は Kokomin さんの精神分析学会報告。かねがね分析者の「中立性」というテーゼに疑問を抱いていた彼女が、「ほんとうに『解釈』が最重要なのか」を今さらながら論じるワークショップだかパネル・ディスカッションを聞きに行って、溜飲を下げて帰ってきたというお話である。
 大いに共感するが、いろいろと留保がつく。いちいち確かめていくとそれこそキリがないが、さしあたり理論としての「精神分析」と、実践としての「力動的心理療法」を区別しておきたい感じがする。実践にあたるもの、まずは基礎理論をきっちりと学び習うべきことは言うまでもない。理論としての精神分析には、「中立性」「禁欲原則」「解釈」は不可欠のキモである。そうでなくては分析が成り立たない。しかし実際に治癒が起きるメカニズムは多くの不純物を含み、それゆえにまた豊かである。
 それにしても分析はあんなに面白いのに、実際に分析を語る者に魅力ある人物の極端に少ない(というより、その反対の人間がむやみに多い)のはどういうわけだろうか。分析を体験した者はその分だけ自分自身の防衛に自覚的になり、従って精神の自由度が増しているのがスジというものだ。自由な人間は他人をも自由にするし、逆に不自由な人間は他人をも不自由にする。後者の例、もともとかなりクセのあった人種が自身の防衛を合理化し、剰(あまつさ)え権威づけるのに活用している場面のほうが、このギョーカイにははるかに多い。そしてあの党派根性!
 少なくとも Kokomin さんは、分析を語るようになってから一段と大人らしくなり(おとなしく、ではない)、僕の方では彼女と会話するのが楽しくなった。けっこうなことだ。

 後半は予告通り、勝沼さんの映画大好きトーク。映画館は高いので(同感!)もっぱらツタヤだそうだが、よくこんなに見る時間があると思うほど出るわ出るわ、

 『危険なメソッド』『息子の部屋』『メランコリア』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ブラック・スワン』『レスラー』『カール爺さんの空飛ぶ家』『マルタの優しい詩集』『ロスト』『ピラニア』『セブンス・コンチネント』『プレスリー vs ミイラ男』そして『ゾンビ』のいくつものバージョン・・・

 申し訳ないとは思うが、僕はただの一本も見ていない。
「一本も、ですか?」
「一本も、ごめん」
 イザベルさんは僕と同じだが、驚いたのは Kokomin さんがかなりのものを見ていることだ。何でも、docomo の配信が月500円で見放題なんだそうで、それを長い通勤時間中にタブレットPCで見ているんだそうだ。よく乗り過ごさないこと。
 勝沼さんに感心するのは「純文学」に比せられる本格名作からキワモノまで守備範囲の広いことで、それこそ何でも見て自分自身の感受性で判断している。震災後などにも発揮された彼の現場主義に通底するものだ。
 そしてほんとにまったく映画が大好きなのだ。相好を崩して次から次へと論評するその表情を見ているだけで、こちらも何ほどか幸せな気分になってくる。ときどき、巧まざる警句や箴言が挟まれる。「死が消費の対象となっている」という観察は普遍性をもって鋭い。「監督に注目して映画を見ると、見方が変わってハズレ体験がなくなる」ことは、映画通なら当然なのだろうが面白い。
 喫茶店の一室でもちろんシラフなのに、2時間して店を出るときは「他界」から帰ってくるようなほろ酔い気分になっていた。ちょうど映画館を出るときの感じだ。『息子の部屋』を見ることが宿題になり、次回その感想をかわすことになった。

 帰り際、クチブエ君を含む4人から、思いがけない前倒しのクリスマス・プレゼントをもらった。 
 『わが青春のマリアンヌ』、それも憧れ焦がれたフランス版、ブラーボ!!!

 え~っと、この件はブログには書いてないのか・・・一月の「塾」で「上映会」をやったこと、その前後の話をメーリングリストで流したんだね。ではあらためて週末にでも、再録することにしよう。
 今度こそ見つかるかな、16歳の秋にテレビの前に釘付けになり、そこで記憶に焼き付いたエンディング・ナレーションの二つの言葉。う~、待ちきれない!

 ありがとうみんな、心から感謝します。

双方向性の授業/仕事の合間

2013-11-20 08:37:02 | 日記
2013年11月20日(水)

>  ハーバード白熱教室で有名なサンデル教授もこの責任を引き受ける感覚について語っていたと思います。日本の授業では戦争責任について、ハーバードでは大学入試のアファーマティブ・アクションについて、学生達と議論をしていました。
 自分のコントロール下にないものを引き受けて、自分が形づくられる。能動的な生きると受動的な生かされるの感覚の両方が重要ではないかと考えています。

 勝沼さん、いつもありがとう。
 「自分のコントロール下にないものを引き受けて、自分が形づくられる。」
 この表現は良いですね。カッコいいし、すっきり腑に落ちます。表現が明晰だと考えやすくなるでしょう。人は同じようなことを考えるものだとも思います。

 ところで、映像で少しだけ見たサンデル教授の授業はなるほど魅力的なものでしたが、自惚れるようだけれど、これなら自分もやれるし与えられた条件下でやっている、その意味で驚きはしませんでした。ある日の桜美林大学で、「精神保健福祉とは何か」をテーマに居合わせた学生たちと即興のミニ授業をやったことを思い出します。皆で定義をつくりだしていく作業で、実に楽しかったこと。
 双方向的な授業は難しいというんですが、あるタイプの講師・教員にとっては、むしろ楽で楽しい(「楽」の二義性が面白い!)手法ではないかと思います。そこに求められる条件は比較的単純なもので、学生は何かしら本気で学びたい・考えたいと思っており、講師はカウンセリングで言うところの「ロジャーズの三条件」を満たしつつ学生に向かって自分を開けばよい。議論される領域に関して講師が学生以上の知識や洞察をもっているということは、ある程度必要ですが全体を通して必須ではない、当然ながら学生に教えられることが頻繁に生じてくるし、そうでなければ授業の面白さも意味も半減してしまいますから。
 心理面接と授業が同根というのは、繰り返し実感するところです。そうか、放送大学の面接授業にもこれを取り入れてみることにしましょう。
 
 ところで、数週間前にびっくりするような勢いで増えた当ブログの訪問者が、今度は引く潮の勢いで減っています。どういう力学か、面白いものですね。今夜はCAT、どうぞよろしく!

*****

いつの頃からか、ナゼか入ってくるようになったネット情報を、仕事の合間の気分転換に書き留める。メンタルヘルス領域のトリビアだな。

○「かんしゃくもち」は英語で何というか?
答え: irascible person
irritation とか irritable とかの言葉を連想する。

○ 最近の研究によれば、うつ病患者において発症リスクが最も高かった脳卒中は次のうちどれか ~「SmartestDoc米国版」より(Pan A, et al. JAMA. 2011;306(11):1241-1249.)
A 全脳卒中
B 致死的脳卒中
C 虚血性脳卒中
・・・分類自体が少々ヘンに思われるが、正解は「致死的脳卒中」だそうな。
以下、解説転記(数字の意味は知らん)

317,540 人を対象としたコホート研究で、追跡期間中に8,478件の脳卒中(罹患および死亡)が報告された。調整ハザード比は、
全脳卒中1.45(95%CI 1.29–1.63、異質性p値<0.001、変量効果モデル)
致死的脳卒中1.55(95%CI 1.25–1.93、異質性p値=0.31、固定効果モデル)
虚血性脳卒中1.25(95%CI 1.11–1.40、異質性p値=0.34、固定効果モデル)

○ 一卵性双生児ペアのデータに基づくと、生涯に全般性不安障害に罹患する症例と関連するのは以下のうちどれか。
A 扁桃体におけるクレアチンの増加
B 左海馬体積の縮小
C 鉤状束における拡散異方性の低下
D すべて正しい。
E 正しい解答はない。
何と正解はDなんだそうだ。病気の原因か結果か?例によって悩ましい。

○ 大うつ病と片頭痛の関係を、最も適切に述べているものはどれか。
A 片頭痛患者は大うつ病を発現する可能性が高い
B 大うつ病患者は片頭痛を発現する可能性が高い
C 一貫して同等の双方向性の相関がある
D 大うつ病と片頭痛に関連性はない
正解はA

○ 最近の研究によれば、片頭痛の有病率が最も高い患者は次のうちどれか ~ 「SmartestDoc米国版」より(Dimitrova AK, et al. Headache. 2013;53(2):344-355.)
A グルテン過敏症
B セリアック病
C 炎症性腸疾患
正解はA、以下解説。

片頭痛の合併率は、
 グルテン過敏症患者で56%
 セリアック病患者で30%
 炎症性腸疾患(IBD)患者で23%

・・・片頭痛の診断基準はちゃんとしてるのかな?

今はここまで!

責任からアイデンティティへ

2013-11-19 07:06:26 | 日記
2013年11月18日(月)

次男より:
 読みました!
 確かに昨日の礼拝で、パウロの言葉がピラトに妙に似ていたので「あれ?」と思ったのですが、なるほど「責任」には二態あったのですね。原語にあたる意義を改めて感じます。
 法的なものと道義的・倫理的なもの、ここでも二つが混同されているように見えます。「赦し」の話につながるところがあるのも分かります。

 ところで、どうも最近はこういった話題になると、自分の「世代」の問題に引き寄せて考えてしまいます。つまりいわゆる「歴史的責任」のことです。戦争・原発・社会保障・財政など様々な分野で、前の代の遺産は次の代の「責任」として降りかかりますよね。
 出来事の起こった原因に直接関わっていなくとも責任が生じる、というかそれを認めないと大変なことになるので誰かが責任を持つ必要がある、というのは事実として引き受けなくてはならないでしょう。
 確かに「理不尽」なのだけれど、その「理不尽さ」を否定すれば自らのアイデンティティを主張することの正当性も消えてしまう。そう思います。といって、全てを引き受ける訳にはいかないのが難しい所だとは思うのですが(^_^;)

次男へ:
 君という人の良心性ですね。
 僕はいわゆる「戦争を知らない」世代に属し、「自分がやったのでもないことの責任を問われても困る」という思いと、「親たちがきちんと幕引きできず、そこには無理のない事情もあったとするなら、よし、この責任を負っていこうじゃないか」という(見回せば、かなりレアな)思い、さらに戦争はおろか学園紛争にも間に合わなかったという取り残され感など、あれこれ入り乱れて結局ノンポリという、情けないありさまだったように振り返ります。

 ふと思ったのですが、
 「同じ日本人のしたことなのだから、責任を引き継ぐのが当然」という命題の当否から出発するほかに、「主体Aが主体Bの責任を引き継ぐことを決意する時、AとBの間に共通のアイデンティティが生じる」という発想もあるかなと、返信を読んで考えました。
 「アイデンティティを共有しているから責任を引き継ぐ」のではなくて、「責任を引き継ぐところにアイデンティティが発生する」のだと。
 もちろん虚構性は常に付きまとうのだけれど、それがいま君の直面しているアイデンティティ形成の相なのだろうと思います。
 アイデンティティ形成は図式的には若者の課題ですが、実はアイデンティティの絶えざる確認・更新が、人の生涯にわたるテーマなんですよね。国民形成も実は同じことで、日本国民は未だ形成されつつある途上とも言えるかな。
 別に日本に限ったことではなく、形成プロセスが停止する時はその文化が終わる時なのかもしれません。形成途上というより、ある意味で形成プロセスがまだ始まっていないのではないかと、それを憂うのかな。この点でもアメリカとは好対照のように思われます。

 (備忘:早期完了型など・・・)

責任二態/不可視の実在/別離と獲得

2013-11-18 07:14:19 | 日記
2013年11月18日(月)

「責任がない」と訳されている箇所の原語を確認。

この人の血について、わたしには責任がない。あなたがたの問題だ。(マタイ27:24)
αθωος ειμι απο του αιματος τουτου. υμεις οψεσθε. 

あなたがたの血は、あなたがたの頭に降りかかれ、わたしには責任がない。(使徒言行録 18章6節)
το αιμα υμων επι την κεφαλην υμων. καθαρος εγω απο του.

 実際は別の単語であった。

 前者は αθωος = α+θωη(罪)で、「罰せられない unpunished」という意味での「無罪 innocent」を意味するらしい。θωηは聖書の問題とする「罪」 αμαρτιαとは違った法律用語と想像され、事実、聖書には用例がない。英語の crime と sin に相当する違いなのだろう。
 ローマ皇帝の官僚として現世の法秩序を管理する立場にあったピラトが、このような言葉を用いるのは至って自然なことだ。
 
 後者は καθαρος、物理的・道徳的に清いことを意味し、英語なら clean がぴったりする。パウロはまさしくそのような意味で、福音を口汚く罵って拒絶するもの達から自分が隔絶されていることを宣言する。服の塵を払う動作は呪術的な象徴性をもち、「聖く分かたれた」ファリサイの出自を思い起こさせる。

 またしても翻訳だ。「責任がない」という同じ日本語に落とし込まれては、こんなことでもなければ気づくすべもない。見かけは同じでも、ピラトとパウロの言明の意味ははっきりと違う。 単に違うというだけでなく、この対照が両者の本質を鮮やかに浮きあがらせている。

 責任論についていうなら、何かに対して「責任がない」という防御的・緊急避難的言明に注意を払うより、自分が何に対して「責任がある」かを問う方が建設的であるのは無論のこと。これについて、responsibility という言葉は示唆に富む。それは語源上 response(=応答)と同根で、自分に問われていることに対して誠意ある応答を為すことが、「責任」の原型であることを明示する。
 自分は、誰から何を問われているか。

*****

 冥(くら)い目には見えないが確かに存在している必然的な連関(=利き)を、ひとつでも多く豊かに見えるようになること、それが向上ということだ。サバキやシノギはこの目的に向けての研鑽に、最上のテーマを提供する点で貴重なのだ。
 え?
 碁の話ですよ、最初から。

*****

 いつまでも抱えているから身につかない、ということがある。読み終えた本は売るか譲るか、いっそ捨ててしまうと良い。そう決めた時に初めて身につくだろう。
 人も同じで、訣別し喪の作業を終えた時に初めて、彼の人から受けたものが自分の一部になるということがある。イエスが天に去ったからこそ、神は聖霊の persona をまとって信徒の身に回帰する。イエスが地上に存在し続けたら、彼はいつまでも目に見える「他人」のままであっただろう。
 そうは言ってみても、そんなこと自分にはできはしない。身になどならなくてよい、何ものも一物も捨てたくはないし、愛する誰一人として失いたくない、そう主張する自分もまた真実であって。

 資料の類は期限付きで捨てるものとして、ちゃんと目を通した方が身になるだろうな。これは確かなことだ。
 今でしょ!